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思考なくして見よ




Kの言う「思考なく見よ、心なく見よ、私なく見よ」とはどういう意味なのだろうか?




ライフワークとして、Kの言葉を探求してきた私・久保栄治はこのKの言葉の意味を現在のところでは以下のように捉えている



Kのこの言葉は誰に対して(どの私に対して)語りかけておられるのだろうか?

それは、「私なく見よ」「思考なく見よ」と言われていることからして、私にでも、思考にでも、心にでもないものに対してである。

心や、私や、思考ではない私に対してである。


それは心なく見ることが可能な、又見ることが、起こることが可能である私に対してではないか

Kに見なさいと言われているその私とは思考ではなく、心ではなく、私という分離二元の私ではない私に対してである

これを正確に言えば本来は分離二元の心や私ではないのに、それら二元分離の意識を自身とを見誤っている私

(私自身を取り違えている)本来は非分離(非在所)の私に対してであろう



それは思考や、私や、心と同一化(若しくはそれらに覆われている)してしまっているところの統覚機能の内奥の私のことであろう。

その内奥の私とは熟睡を観照している意識そのものの事であり、熟睡を観照している意識の状態如何が個別的霊魂の状態又は霊魂のレベルなのだ。

(熟睡を観照している意識が未だ顕在化していないと言うことは、その意識とは思考であって観照の意識ではないと言うことだ

眠ってしまうのは思考・心であって本来の意識は自他の分離なく熟睡と夢見と覚醒を観照しているからだ)


このことを別の切り口から考察してみると、脳の記憶の反応ではなく脳が熟睡している状態でも機能している意識で見よということだ

海馬という記憶域や、前頭前野の大脳周辺系ではなくて、脳の最中枢部位にあって生命を維持させている意識のことを

Kは言っている様に思える。思考は物質であり、その思考という物質は脳神経を通じて受信されている。思考自体は起こっているのだ。

だからKはその前頭前野で受け取られている物質ではなくて、もっと脳の中枢域で受け取られている霊妙な物質で意識せよと

言っているようにも思える。これは唯物論や唯心論を超えた霊的唯物論だが・・・

それは熟睡中でも働いている意識、現在意識や潜在意識には補足できない霊妙な物質であり、脳が眠っていても機能している意識だ。

それは生命そのものでもある意識のことではないか。しかしそれはこの次元では補足できない霊妙なる物質でもある。



この脳の中枢部に位置している統覚機能

その統覚機能(鏡、個別的霊魂のこと)とは非個人的、非私、非心、非思考であり全体性であるにもかかわらず

肉体や諸体や個人や私という観念や行為や心・マインドと同一化しているために、それらに覆われており

それら私という観念であるもの(心・マインド)と自身を同一視しており

日中の覚醒意識や、夢見の意識を自身の意識だと(心を自分だと)取り違えてしまっているのだ。

私はいないのに脳の条件付けで私個人がここにおり、生きて行為しているように錯覚を見ているのだ。



Kによって「心なく見なさい」と語りかけられている私とは、脳の条件付けに因って発生している記憶の私

思考や行為の結果である私ではない。それらの結果である私とは「私が思考している」という実感を持っている記憶・私であり、

それは”「私が行為している」と実感しているところの思考と行為が生み出している「私意識」のこと”だ。それは思考・記憶だ。

Kに語りかけられている私とはそれら「私という観念の私」ではなくて

自身である非分離の私とそれら私ではない思考・心を自身と取り違えている非分離の一部である私に対してである

その自身を取り違えている私とは見ることが可能なのだが、只現在は「私という観念・心」に覆われている・・



これらの分離している意識(分離している私)とは夢見と覚醒の意識のことであり、それは聖なるマーヤの意識のことでもある。

分離していないのに”「分離している私」という観念”は行為と思考によって生じている。

その私という観念・・それは対象を分離知覚している意識であり、本来の意識ではない、それは心であると。聖なる根源であると。



だからKが語りかけておられるのは既知なる意識のことを「分離していない自身の意識」と取り違えているわたしに対してだ。


本来、統覚機能とは全体性の一部であるにも拘わらず、実相と乖離し、私は個人だというそれらの心・私という観念に染まっている。


従ってKはそれらの本来の純粋精神であり全体性の一部である統覚機能に対して

その自身ではないものを、あるがままを、あるがままに、分離なく、離れず、判断なく、そのそれ自身として

「観察しているものは観察されるものである」として観照しなさいと言われるのだ。

その本来の私の目には「観察者は観察されるものである」と正見していることだろうからだ。



それゆえにKは「思考が思考者を生み」「行為が行為者を生んでいる」すなわち思考が思考者であり、行為が行為者なのだと言われる。

思考も行為も起こっていることであり、私が思考しているとの私も、私が行為しているとの私も、起こっていることの一部なのではないか

それらは心であり、脳でもあり「起こっていないもの=本来の私」(時間を持たない非在所の私)ではないと

脳に入った統覚機能・意識が脳の思考や各体の私や心のことを自分の意識だと見誤ってしまっているのだ。


故にKの言葉は、この全体性である統覚機能(個別的霊魂の内奥・若しくは鏡・窓)に対して語りかけておられるのであると思われる。



その私に対して、決して、肉体やその行為そして諸体、思考や自我や心や夢見の意識や覚醒時の意識と同一化してはいけないと

それらあるがままを、あるがままに、心なく凝視し観照しなさいと、

あるがままを見えなくさせているのは心であり、心自体が「存在していない私を実感する」私なのだ。心が主客の分離を実感している。

あるがままとは「あるがままである」のに、それを「見る者」と「見られるもの」に分離しているのは私という心なのだ。

心とは記憶からエレメンタルから頭脳から外部や内部から、そしてその全ては根源から起こって仮想の「私」を生み出し続けている。

そしてそれらを心なく見ること自体がそれら二元分離からの解放をもたらすであろうと

それらのあるがままが、あるがままの本来の姿を顕わにするでしょうと


そのあるがままが「思考なく見られること」によって、本来のあるがままが開顕するのだと

すべては根源であったことが顕わにされるであろうと

現象はマーヤであった、と





そのようにいわれているのではないか、・・そのように思考が起こっている。