思考者はいない、思考が起こっているだけだ
Kは言う、「思考があるだけで思考者はいない」と
今日はこのKの言葉を考察してみた
このKの言葉は「思考イコール私」が終焉した「あるがままを見ている」状態の「見」から見ているレベルでの言葉なので
思考そのものである私達はKの状態を推測することも出来ないが、敢えて試みてみた
「私」が思考しているのではない、「私」が考えているのではない、思考である記憶の反応が起こっているだけだと。
その起こっている思考が「私」を生じさせており、考えている主体である「私」とはその思考それ自体なのだと。
その思考(私)は脳の中枢・松果体に位置する統覚機能から投影されているのではないだろうか?
マインドが条件付けられている脳によって記憶され、その記憶の反応が起こっているのだ。
記憶の反応と、その記憶によって知覚されている「マインド」が起こっているだけであって「思考している私」とは存在していない虚像だ。
考えている私とはいない。思考が起こってるだけだ。と
「私」意識とは思考それ自体であり、その錯覚は脳の中枢から来ている。
「私」が考えているのではない。条件付けられている記憶の反応が起こっているのだ。決して「私」が考えているのではない。
汎思考が脳内で起こっており、その思考それ自体が「私という観念」なのだ、「私」なのだと。
記憶という条件付けられているシステムの反応が「私の思考」、「私の想念」、「私の」という実感を伴って起こっている・・・・と
思考者という個人の私が思考しているのではなく、
記憶の反応である思考が思考している私という実感を伴って発生している・・・・と
そしてそれがさらにエレメンタルを生み出している。
マインドは私という観念であるために、思考が起こった場合、思考は必然的に思考している私を生じている。
このマインドの記憶の条件付け(肉体の記憶だけではない)は
「私が思考している」という思考者という虚像を実感しているのであって、決して、私がいて私が考えているわけではない。
脳の記憶システムが私という実感を生じさせ、この記憶の反応が「思考している”私”」と言う虚像を生じさせているのだと。
「私が考えている」「私が思っている」という虚偽の実感を生じさせているのは、その考え、その思い自体に他ならない。
実際に思考しているのは人類に同一の汎マインド即ち人類に同一の私という観念それ自体ではないか。
さらにまた
この個体特有のDNAや脳の条件付けに従っての反応が起こり、継続する記憶からの条件反応が起きているのであって
決してその思考・記憶から独立している「思考している私」「私個人」がいるわけではない。
いま述べている、久保栄治のこの思考や観念も、このホームページを読んでいるあなたの考えや反応も
私という観念に拠って条件付けられているマインドの記憶の反応であり、
久保栄治という独立した個人がいて、その個人が思考しているわけではなく、
「私という観念」の記憶の反応が起こっているだけで、その記憶は私という虚偽の実感そのものであると思われる。
思考が活動している限りは、当然、「私」が考えているという虚構が起こってしまう・・・「”私”が思っている」・・と
実際には久保栄治という実体がいてそれを考えていたり、これを読んでいるあなたが考えているわけではなく、
条件付けられている記憶が条件付けられているように記憶の反応がこの特定の脳に起きているのだ。
若しくはその反応が更に生み出したエレメンタルが活動しているのだ。
この記憶とは脳に位置しており、身体に起こっている行為や、出来事や起こっていることに対しても
自分が関与し、自分が選択していると思っている。実際には肉体も、肉体の行為も起こっているのにだ?!!
なのに自分で選択し、自分の意志で行為していると錯覚しているのは、この汎マインドの個体の脳の記憶であり、
この汎マインドとは全身に浸透し脳の中枢に位置している統覚機能から起こっているのかもしれない。
実際には選択も、意志も、従って行為も起こっているのであり、記憶(私という)が引き起こしているのではない。
記憶が錯覚するように脳のシステムにより、自分が行為している、自分が選択している、自分の意志だという錯覚が引き起こされている。
記憶域が脳にある、若しくは脳と繋がっているから身体や身体の行為や知覚を自分の身体、自分の知覚、行為と錯覚するのではないか。
此の肉体や、この諸体や、この個別的霊魂とは決して私のものではない。これらは起こっているのであり
それを自分の肉体、自分の諸体、自分の個別的霊魂・・と思っているのは私という観念であり、記憶なのではないだろうか?
私個人という実感は記憶が生み出している虚像なのだ。
汎マインド、若しくは汎心、汎「私という観念」が、私が存在している、私が生きている、私の人生だという錯覚を常識にしているのだ。
他と分離しているこの私とは全人類同一の私という観念が引き起こしている条件付けられた記憶の反応であり、
自分の記憶、自分の心、自分の知覚、自分の生命というような逆転した実感をしているのは私という観念なのだ
他と分離しているこの特定の個人・私とはこの汎「私という観念」なのではないだろうか
ラマナ・マハリシやシャンカラはこの現象の根源に至ったとき
現象はない・・「あるがまま」がある。というようなことを言っているが、これは私達思考では全く推測できないことがらだ。