私という観念の主体は統覚機能
シャンカラは「ウパディーシャ・サハーディ」の著書のなかで述べている
「統覚機能が私という観念の主体である」と
それは
全体である根源・源泉が
あらゆる有情無情の個別的霊魂となり、
そのそれぞれの個別的霊魂を通じて
私という観念を発し、意識を用い、心を用いて生きている
全ての知覚と感覚を統覚し、記憶している。
そして、かつまた
その個別的霊魂の心の記憶を継続させ
記憶が自我(エゴ)・個人となり
今回の個人個人の人生として生きておられる。・・・・ということではないか
それは
全体である貴方が個々の私として生き、そして個々人として演じておられるということなのではないか
根源は外部・外側だけではなくて内部に於いても
私達個別的霊魂と個別的記憶体の自我として演じ生きておられるのではないか
私達、全人類すべての
悩み、楽しみ、苦しみ、嫉妬と欲望の炎に包まれている私とは私という貴方であり
喜びと悲しみと狂気と不安、希望と絶望にうちひしがれている私とは私という貴方であり
全ての個別の私として恐れ、藻掻き、至ろう成ろうとして必死に生きている私とは私という貴方であり
全ての苦悩する個々人とは全体である貴方ご自身に他ならない
貴方とは根源・源泉にほかならず
心を用い、個別的霊魂を用いて演じ、行為し、生きておられる。
それにも拘わらず自我や個別的霊魂は行為し生きているのは「此の私だ」と錯覚している。
これらの個別の私を用いて記憶し、個々人として行為し、演じておられるのは根源であり、全体である貴方に他ならない。
即ち、全ての全人類の私を用いて、生き、感じ、記憶し、演じておられるのは全体である貴方に他ならない。
・・・とそのように思考される。