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私とは虚構である


私とは私が生み出したものであるのか?

自我は自我が生み出したのか?

否、自我は自我が生み出したのではなく根源のものだ。

私自我は源泉から起こっている観念、起こっている虚構現象である。

この神聖なる虚構現象は呼吸が成立せしめていると思われる。



行為が行為しているという実感である自我を生み出したのだ。

思考や感情や欲望が、その主体感覚である自我を生み出したのだ。

私とは心であり、条件付けられている意識であり、意識・心が生み出しているもの。

否、心そのものであることだろう。

階層性、複層性、次元性が異なっていても同じ心だ。

心とは勿論、私が生み出したのではなくて、起こっている現象である。

私には心は生み出せないからだ。

心は根源から来ている。


従って、私にはこの私は生み出せない。

私が心を生み出したのではない。

心が私を生みだしているからだ。

心とは「私の心」ではなく。「こころの私」である。


心とは神聖なる錯覚(マーヤ)から生じている「私という観念」に他ならない。

心は私・個人が生み出したのではない、個人が心によって生じているのだから。

私が心の一部分なのである。そして心は根源から生じている。


意識や知覚や認識と同じようにそれは最高傑作であるところの人類共通構造の脳がうみだしているものだ。

ゆえに私個人とは、この個別の自己感覚とは、明らかに虚構である。

この自己感覚こそが全人類の共通の虚構だからだ。
    

私という観念は明らかに全人類共通の虚偽の(虚構の)観念であると思える。

実際には個人という私が実在しているのではない、心であるマーヤがあるだけであるからだ。



こころ、それは確かにあらゆる色彩にとみ、奥深い味わいを伴っている。

だがその心が生み出している私という個人とは虚構だ。

その虚偽が元来の感覚や知覚や意識を覆っている。元来あるものを見えなくさせているのではないか。




為す、考える、欲する、生きるとは、食べる、呼吸する、血液を循環させる、排泄する、生殖すると同じように

脳を通じて起きている事柄であり、私・個人はそこには全く関与していない。

それは起こっている。それは起こっているのであり私が起こしているのではない。私が起こっていることなのだ。



私個人だと思わせていること=虚構が・・・起こっている。心が起こっている。

行為、生きていること、出来事、人生

それらは自分が為し、自分であるかのように錯覚されてはいるが、

よく考えれば分かるように、その錯覚も含めて全ては起こっているのではないか。

私とは各諸体の脳が、またその記憶が生み出している虚構・錯覚なのではないか?

神聖なる虚構なのではないか?

分離した個人の私とは各諸体の脳の中枢から投影されている錯覚なのではないか?


それ故にこの記憶である私には、自分が錯覚そのものであることが分からないのであろう。




私が至るのではなく、至ろうとしている私とは心であり、その心とは私という虚偽の観念であるからだ。

私が努力しているのではなく、努力が起こっているのだ。

私が考えているのではなくて、その考えが起こっているのだ。

私が行為しているのではなくて行為が起こっているのだ。

私の善悪ではなくその善悪、好悪が起こっているのだ。

私の才能があるなしではなくてその才能は起こっているのだ。

私が選択しているのではなくて選択が起こっているのだ。

私が至る、または至らぬではなくて、至るも至らぬも起こるのだ。

私が考えているのはなくてその起こっている思考、意識が「私が考えている」と実感しているのだ。

私自身が起こっていることなのだ。




努力とは為すことではなく起こる事ではないのか。

考えることや欲望も自分が考えているのではなく、自分が欲望しているのではない。


どうして思考や感情や欲望や意識を自分ができるだろうか、それは起こっているのだ。

どうして自分に恐怖や嫉妬心や羨望の心を生み出すことができようか。



その思考も、欲望も、その主体だと実感している自分も含め起こっている事であるからだ。

それはこの条件付けられている脳を通じて創造されているのであり、起きているのだ。



出来事もそうだ。行為もそうだ。

為すことも私が為しているのではなくて、為すことが起こっているように出来事も起こっている。

出来事も私が為しているのではなく、

出来事とは、この自分自身をも含めて為されているのだ

従って

分離した私が至ることはなく、至らないこともない。至ることも至らぬことも起こっているのである。

私が至るのではない。至るも至らぬも私を含め起こっているのだから。



その、私が・・という私こそ心という神聖なる虚偽であるものだからだ。

私とは、私という実感すなわち功利的である自我とは神聖なる虚偽の観念なのだ。



糞も、消化も、睡眠も、感覚も、知覚も、意識も私がそれらを為しているのではなく起こっている事柄であるように

私も、起こっている事柄であり、しかもそれは虚偽の観念それ自体なのではないか。


ここが大切と思われる。私とは実際には存在していないのにあたかも存在しているように実感が起こっている。

それを実感しているのは私という観念なのだ。そしてその観念が虚偽であり、それが心なのではないか?



意識の中身とは、実際にはすべての人類が同じであるにも拘わらず、私達は私達を個人だと錯覚している。

それこそが全人類が全く同じ心で成り立っていることを証明している。

それが人類共通して私の考え、私の欲望、私の願い、私の行為、私の人生などと言っている?!

中身は全く同じなのに・・・。


それをそのように錯覚しているのは私という観念にほかならないのではないか。

何故なら、私達こそその錯覚そのものであり、その錯覚の記憶であり、継続しており輪廻している記憶だからだ。

この記憶が継続していられるのは、神聖なる意図があり目的があると思われる。



確かに

なることはなく、至ることもなく、成就することもない・・何故ならば、成る、至るとは私を前提にしており

その私とは起こっている事柄だからだ。

その起こっている事柄である私が、起こっている事柄を生み出したのではないからだ。

だがしかしなぜ、根源はこの錯覚を機能させて、記憶を持続させておられるのであろうか?



確かに

錯覚である私とは、起こっている観念にも拘わらず自分が為していると錯覚し、

自分が呼吸し、自分が思考していると錯覚している。

だが実際には呼吸は起こり、思考は起こり、それを為していると錯覚する私も起こっている。


脳を司り、機能させている根源が心を使い、脳を使い、錯覚を使って自我として、私として生きておられるのではないか

生き、行為し、呼吸し、考えを起こしているのは未知なる根源であり、既知なる私という観念=私達ではない

生きているのは私ではなくて、私という錯覚を使って生きておられる未知なる源泉であり、

起こっていることを起こらしめている神聖なるマーヤである。

二元性を起こし、区別を起こし、自他の分離の知覚を起こしておられるものである


それゆえに

だからこそ

この虚構であり錯覚であり、継続しているこの私自我には

肉体があるうちに心であるものが終熄し、新たに生まれ変わるという目的があるのではないか

肉体は素晴らしい神の傑作、諸体は神の傑作、現在のパーソナリティーも神の傑作、統覚機能も神の傑作


自我である私もあなたも、神の傑作、神ご自身、神ご自身の御演技




・・・と忙しい毎日の中を、その様に思索したりするこの頃である