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じっと耳を傾ける



じっと耳を傾けることが非常に大切なのではないのか。

その話していることに対して、その感情や、その思いや、その動機や、その自我に対して、この私自身に対して・・・

静かにただただ凝視すること、聴き入ること、耳を傾けること。

反応したり、非難したり、考えたり、お喋りせず、静かに相対すること。

エゴの、自我の、この私群に対してすぐに善悪の判定や非難をしたりせずに、

ただただ耳を傾けること。じっと暖かく抱擁すること、思考なく凝視すること。

私自身にじっと耳を傾けること。



私達は私達自身に対して耳を傾けないで、すぐ頭から押さえ込もうとする。すぐに変えようとする。若しくは無視する。逃避する。

自我が自我を無視している。自我が自我を非難している。自我が自我を避けようとしている。自我が自我から逃げようとする。

自我が自我を変えようとしている。自我が自我を自我でないものに至ろうとしている。

それが自我の特徴だからだ。


自我だからこそ自我という自分が自我の自分に対して押さえ込もうとしている。

自我が自我から逃げようとしている、変えようとしている。又は無視している。



だがこの自我である現在のパーソナリティーには可塑性があり、可能性が有る。


けれども

自我が真我の振りをしていても、自我が自分は真我だと信じていても、自我が自分は真我だとそう思い込んでいても

その思い込んでいるのは自我であり、振りをしているのは自我であり、信じているのは自我であり

依然としてそこには自我がいる。残っている。

真我の観念に覆われている自我が、真我の衣を被った自我が、変容されず、消滅することもなくそこに残存している。

大切なのは真我の観念ではない、真我の信仰や知識ではない、真我は信仰の如何、知識の如何に関わらず

既に今ここに生きて働いているからだ、もし真我がいなかったら自我は一瞬も生存できないからだ。

重要なのは永遠のパーソナリティーや真我に対する知識や信仰や観念ではなく自我の終焉である。

重要で大切なのはこの現在のパーソナリティーの状態の方なのだ。



永遠のパーソナリティーと繋がっているのに繋がっていることを実感していないのはこの現在のパーソナリティーの方だからだ。

繋がっているのに繋がっていない状態なのは永遠のパーソナリティーの方ではなくてこの現在のパーソナリティーの方だからだ。

永遠のパーソナリティーと同調できないでいるのはこの自我である現在のパーソナリティーの状態なのであって

永遠のパーソナリティー(個別的霊魂)の方ではない。



だからこそ、自我は自我にじっと耳を傾けること。

じっと静かに自我のお喋りに、自我が話していることに耳を傾けること。自分から視線をずらさず凝視すること。

静かに遭い対面し、逃げたり、非難したり、判断したりしないで、ただただ黙って聞き入ること、凝視すること。

その恐れ、悩み、苦しみ、悲しみ、高慢で、嫉妬深く、狂気の自我を暖かく抱きしめ、抱擁してじっと聞き入ること。

何の判断も加えず、ただただ暖かく凝視すること。

自我が自我にそうするのは、自我には可能性が有るからに他ならない。

再誕と変容の可能性とその可塑性があるのは

現在は塞がれてはいる状態ではあるが永遠のパーソナリティーと繋がっているからに他ならない。


もしこのワークが、実際に行われるならば、凝視されているものは溶解し、根源が開示され、

蛹が変身して蝶となり大空に羽ばたくように、自我は終焉し新たなる意識が誕生する

即ち

現在のパーソナリティーが永遠のパーソナリティーに本来繋がっていることが新たなる現在のパーソナリティーに開示されると

現在のパーソナリティーの変容が始まり、根底にあった永遠のパーソナリティーの意識が現在のパーソナリティーに浸透し始める

再誕と変容が始まると、教えられているからである。


それにはまず初めに、この「ただただ聴き入る」「ただ見入る」というワークが必須であろう。

耳を傾けること、聴き入ること。非難無く、判断なく、目を向けること、抱きかかえること。

多くの自身に対して、多くの自我に対して、多くの自己に対して「愛」を捧げること、抱擁すること。


既に実在している永遠のパーソナリティーとこの意識的自己である現在のパーソナリティーとが

既に繋がっていることを再確認できるためには、まず自分自身を受け入れ、意図や動機や目的といった思考を介在させないで

その意図や動機や目的を凝視すること。

それらに目を差し向け、耳を傾けることが肝要なのではないか

というのも現在のパーソナリティーには可能性が有るからに他ならないからだ。

それこそがこの現在のパーソナリティー・自我が創造された目的に他ならないと思われるからだ。