狡猾
狡猾とはずる賢いこと、一見すると賢いように見えていてもずるいこと
ずるいとは、自分の利益を得るために要領よく振る舞うことだが
自分とは狡猾である事に気がつくとき
自分が狡猾なのだろうか?
それとも狡猾が自分なのだろうか?
狡猾だけがあるのだろうか?
自分が狡猾を持っているのだろうか、それとも狡猾が私という自分を生み出しているのだろうか
狡猾即ち狡猾である私は生じているものなのではないか?
何故なら、この狡猾である自分には、その狡猾も、その狡猾である私自身も生み出せないからだ
その狡猾も、狡猾である自分も生じているのだ。起こっているのだ。
私も起こっている「こと」であり、同じく狡猾も起こっていることだ。
だからこそ
狡猾である私は、狡猾である私を愛すべきだ
たとえ愛がなんたるかを知らなくても自分は自分を愛すべきだ
それが被造物のまた結果であるもの即ちこの私のあるべき姿と思われるからだ。
究極に於いては、この非情も、非情である自分も、非情自身が、即ち非情という自分が生み出したのではない。
この非情イコール非情である自分も生じている「こと」
何故ならこの非情も非情という自分も、非情自身、非情である私には生み出せないからだ。
自分には自分を生み出せない。私達は結果なのだから。
それは、時空間を生み出し、自己を生み出している記憶を記憶の結果である私が生み出せないのと同じだ。
私が知覚しているのではなく、知覚も知覚している私も、結果として生じていることなのではないか。
私が記憶しているのではなく、記憶の実感が私の実感であり、その記憶はシステムの結果として生じているのだ。
そして、その記憶が私であり、記憶が記憶システムを支えている高次の意識を得ようとし、至ろうとし、悟ろうとしている
・・・おかしなことだ。
PCでは電源が入れば記憶装置が働くと同じように
電源である生命が働けば、呼吸と心臓は働き、従って脳の記憶も働くことができる。
その脳の記憶が個人という私自己を生み出し、私は他人とは異なっているという実感を生み出している。
が、しかしその実感は錯覚だ、実際には他人と異なっていると思っている私は、全く人類同一の記憶だからだ。
脳とは全人類が全く共通で、全く同じ根本内容であるにも拘わらず、脳が生み出している思考の記憶は
自分は個人で他の人とは異なっており、自分は独自でただ一人だと錯覚している。
勿論、各個体の脳の特質も状態もそれぞれ異なっていて、その異なっている状態、特性、天才も、不具合も
脳の結果である私が生み出したのではなく、脳によって生じているものであるのだ。
ではこの脳は、この錯覚はどこから生じているのであろうか?
そのどことはどこか? 私という錯覚を生み出し、記憶を維持させ、意識を生み出し、時間を生み出しているそれとは?
思考はそこまでであり、そこから先は思考では不可だ、
そこから先は私という実感を全く伴わないそれが自らを開示することだろう。