複合の私
複合の私とは、現在のパーソナリティーの私のことであり、現在意識の私であり、複合している種々の私のことだ
この現在意識を構成している種々の私が清まり、静まり、透明になることが非常に重要なのではないか。
私は肉体ではない・・と信じ、思い込んでいる私とはどの私か?
それは肉体の私なのではないのか。
私は観察している・・・と思っている私とはどの私か?
それは観察する事の出来る目のない記憶の私なのではないか。
問題は何もない・・・と信じている私は、問題である現在のパーソナリティーの私なのではないか。
行為は起こっている、私は行為していない・・・と思い込んでいる私とはどの私か?
それは行為の実感に溢れた、行為の結果である行為している私なのではないか。
私個人とは実在していない・・と思い込んでいる私とは、その実在していない私なのではないか.
もし私は実在していないと実感しているなら私が世界であり、私の中に世界が有るということを
世界と私が分離していないことを実際に肌で実感しているだろうからだ。肌に爽ぐ風が私なのだと。
種々ある私の中で、肉体の私が、私は肉体ではないと言い、問題である私が何も問題はないと言っている。
転生している私が、転生はない。転生はしていないと言い、
眼がなく見ていない私であるにも拘わらず、私は見ていると思い込んでいる。
だからこの複合している私(現在のパーソナリティー)が重要なのだ。
行為していない私は、何も問題はなく、それは見ており、転生していないことだろう。
しかし、だからこそ、この現実存在の、現在の意識の私の状態が重要だといえよう、
即ち、行為していると思っているこのこの行為主体という実際感覚をもつ私の状態が重要なのだと思われる。
思考なく見ている本来の私は既に見ていることだろう、がしかし、この現実存在の私は見ていないのである。
だから大切なのは既に見ている本来の私の方ではなくて、見ていない実際の私の方である。
この複合の私が静まり、透明になり、沈黙出来る様になることである。
私は肉体ではないと観念形成をしているのは頭脳が生み出した肉体の私なのではないか。
それは記憶であり、この記憶の反応の状態が重要なのだ。
もし記憶の反応が毒のエレメンタルをまき散らし続けているのにきづけば、毒をまき散らすのは止むことだろう。
私は行為していないと信じている私(この行為によって生み出された私)
行為しているとの実際感覚のある私が行為に対して責任があることだろう、それは即ちこの現実存在の私のことだ。
それゆえに、行為が非常に重要になってくる
起こっていることに全託するという行為が、何も行為しないという行為が重要になってくる。
それは個人の私は実在ではないといっている実在していない私の方の状態が非常に重要なことと同じだ。
この現在意識があるのは実相界ではなくて現象界であり、現象界の意識の状態が大切なのであるといえようか。
これらの知識、書籍や聖賢からの教えを信じ、記憶し、信仰しているのは、一体どの私なのであろうか?
だから肉体の私の状態が大切であり、反応する記憶の私の状態が大切であり、
感情体や思考体の私の状態が非常に重要であるといえる。
これらの複合の私とは現在意識を構成している現在のパーソナリティー即ち現在意識と潜在意識を構成している私のことであるが
これらの私、
即ち朝に目が覚めて、夜には眠るところの”転生している私に付帯している諸体の私”の状態が清らかになり透明になる必要が有る。
転生している私とは個別的霊魂であるコーザル体のことであり、
その個別的霊魂の内奥が既に実在しているからこそ生命は維持され、心臓は脈動し呼吸していられるのだ。
有り難い、有り難い、有り難い、感謝以外に何ができるのであろうか、生かされ、与えられ、愛されているのだから
だから大切で重要なのは現在のパーソナリティーの状態であり、
この実際に行為していると実感されている複合している私の方なのであるといえようか。
この現在のパーソナリティーの状態は現在のパーソナリティーに責任があるのだ。