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貴方だけが生きておられる



近頃思うこと、考えること~


貴方しかいない。貴方だけがいる。

内も外も。外部も内部も。

(内部と外部とに分割する意識・マインドを使って生き行為されておられるのは貴方だ)

私とは、即ち私という意識や心とは貴方が使用しておられる道具なのではないか。

貴方が脳を用いて私という観念として生きておられるのではないか。

個人の私として生きているおられるのは貴方だ。



生きているのは私という観念の私ではなくて、その記憶の「私」として貴方が生きておられる。

行為しているのは私という観念ではなく、またその記憶でもなく、貴方が生き行為されておられる。

そして自分が行為しているという錯覚を生み出し、その記憶は継続している。



内部とは貴方の演技。

外部とは貴方の投影。

貴方は意識、マインド・心や思考や記憶を使って内部として内部で(意識で)生き

そして外部の分離を生み出され、外部、外側という投影を生み出されている。外側は貴方である。

それ故に


貴方は「在る」が故に、貴方は「見ている」が故に

すっかり意識やマインドや心や記憶と同一化している「窓・鏡」に対して「在りなさい」「見なさい」「沈黙しなさい」と言われる。

「窓・鏡」には可能性があり、可塑性があるからだ。


「見ている」があるとき恐怖はあるのだろうか?悲しみがあるのだろうか?

「在る」があるとき、即ち「見る」があるとき、個別の私はいるのだろうか?

そのとき恐怖や悲しみがあるのだろうか?


それゆえに

多くの聖賢は言われる

恐怖の根底に、私という観念の奥底に至ったとき、悲しみの根源に至ったとき、自己の根底に至ったとき

そこに始めから在った貴方が顕現していると


だからこそ

私達には本当の自己観察、自己想起が求められているのではないだろうか


・・と、ふと思ったりするこの頃である。