戻る









見ることを妨害しているもの



「正しく見ること」を妨害しているものがある。

「対象」を分離なく「正しく見ること」、に割って入ってきているものがある。

その一つが条件付けられている脳が生み出した記憶であることだろう。

記憶が、しかも条件付けられている脳を経由して蓄積した「私という観念」のこの記憶が

「正しく見ること」を妨害しているものの一つだと思う。


即ちそれらが「本来の見ること」を妨害しているのではないか。

心が静まっていない限り、私が残っている限り、思考が動いている限り、見る事は不可能だと教えられている。

思考と判断や評価や考えること、思う事が完全に熟視されない限りは見ることは起こらないだろうと。

この目が、ある特定の思考である限り、それは思考であって「思考を超えたもの」ではない。

思考にとっては「思考を超えたもの」とは未知であり、知ることもなく、推測することも知覚も認識も出来ない。

だから本来は、主客とはおそらくは分離していないのに記憶が間に入ってきて

見ている私と対象との分離を生み出しているように思える。世界と私は別々だと思わせている。

そして逆に「私が見ているのだ」という「正しく見ていないのに見ているという実体感覚」というものを生み出している。



もし本当に見ることが起こっているなら、当然そこには私はいないはずだ。従って主客の分離はないはずだと。

本来は見ている私も、その私によってみられているものも同じもののはずだ。

自と他の区別や主客の分離はないはずなのに・・・、では誰が区別や分離や私を実感しているのか?


主体と客体、見る者と見られるものの分離・区別を生み出している「それ」が

「対象」と「正しく見ること」の間に、記憶として、先入観として、心として立ちはだかっているのではないか。

それが私だ。それがマインドだ。



本来は見ることとは起こっている事柄にも拘わらず、「私が見ている」という錯覚が生じているのだ。

その錯覚が出現している現場こそこの脳ではないか。


私が見ているのではない。見ている私とは「条件付けられた記憶」が生み出した結果であり、

私が見ているのではない。私も、見ることも、記憶も起こっている事柄だ。

私とは「この条件付けられた見ていること」が生み出した錯覚であり結果ではないか。記憶なのだと思われる。

感覚や知覚や統覚は記憶が生み出したのではなく、記憶システムを支えているもののものだ。


この正しく見ていないことが生じているのであり、その見てないことが「見ていると思っている私」を生じさせているのであろう。


私が正しく見ているのでもなく、私が正しく見ていないのでもない。

正しく見ているのは私ではなくて、その「正しく見ている目」そのものであるからだ。

もし正しく見ているならそこには私はいない。

正しい目だけがある。



もし”私”が正しく見ていると思うなら、それは正しく見ていないのだ。

正しく見ているときには私はいないことだろうからである。


私が生きているのではない。この人生は私の人生ではないからだ。身体の人生だからだ。

この人生は、ある特定の有機体をいかしておられ、行為しておられる「源泉の人生」であって私のではない。

生きていることが起こって、ある特定の有機体の行為が起こって、更に行為していると実感する私が起こって

その「私が生きている」という私という虚構を生み出し「私の人生だ」という虚偽を生み出している。

この人生はこの特定の有機体の人生であって、貴方の人生だ。

貴方が全ての人のこの人生を自我として生きておられるのであり、貴方がこの私として苦しんでおられるのではないか。




私の人生ではない。

私とは聖なる錯覚なのだから。この特定の個体独特の人生が起こっているだけなのであると思われる。

このある特定の肉体と精妙体が、生まれ、感じ、考え、悩み、苦しんでいるのであり、そして死滅していく。

この個別のプログラムされた有機体とその記憶、即ちある特定の私は生かされているのであり、

その特定の私とは貴方の作品であり、貴方だと。


そのある特定の私とはその有機体の持つプログラムによって生み出された「私」という自己感覚なのであろう。


私が生きているのではない。私とは私という観念であり、その観念を使って貴方が生きておられる。

貴方だけがいるのではないか。

未知なる貴方がいるからこそ全ての人が生きていられる。生かされている。


私ではなくこの特定の有機体が生きているのであり、この有機体はある期間生かされているのであり、そして消滅する。

”が生きている””私の人生だ”というこの実体感覚はこの有機体のシステムによって生じている錯覚・虚構に過ぎないと。


誰一人、その個人が生きているのではない。個人が行為しているのではないのではないか。

私が生きている、私が考えている、私が仕事をしている、私が行為しているとは、この脳が生み出している錯覚であると。


実際には生きることも、考えることも、行為することも、それらを自分が生きて為していると思っている私も

根源によって起こっている事柄であると。


この精妙体を含めた特定の有機体と

その有機体を生み出し、脳を通じて生み出された記憶であるこの「私という虚構」を通じて、

行為され、思考され、悩まれ、楽しまれ、特定の個人として生きておられるのは貴方なのではないだろうか






と考えたりするこの頃である。