思考とは注意散漫
思考とは注意散漫であるという。
思考とは見ていないということであり
思考は起こっていることだという。
思考には見えていないから見ようとしたり、見るための方法を探したり、実践したりする。
それは思考の働きだ。
観察者であり、自他という対象を見ている私とは、見えていない私であり、注意散漫の思考であるという。
それは思考だ。思考が即ち私だと。
考えることは見ることを妨害している。考えているからだ。
考えている限りは見ることは出来ない。
する、なる、私、至ることとは錯覚である思考の特色であり、それは見ることではないと。
大空に浮かんでいる一片の雲を見ているものとは、その雲であって、大空ではない。
自我を対象として観察している者とはその自我自身であり、その「見」とは自我を見ていないことを証明している
その「見」とは自我の見だからだ。それは思考に他ならない。
自我をもし見ているなら自我を見ているものとは私自我である。自我が自身である自我を観察対象にしているのだからだ
との理解・気づきが生まれていると。
そのとき気づきの目によって、思考の姿が細部にわたってハッキリとクリヤに見られていることだろう
だから真に見ているとき見ている私はいないし、思考はないし、心もないし、自他はいないと。
大空に浮かんでいる雲を観照しているのは、その雲であって大空ではない。
その状態での大空とは雲が考え出した大空であり、本当の大空、本当の理解、本当の観照ではない。
見る者と見られるものが別々にいることが大空の意識ではないことを証明している。
それは思考だ。
雲を見ている者がいる限り、そこに大空はないことだろう。
私が雲であり、雲自体であるとき、そこに主客の分離がなく、雲はなく大空だけがあると云われている。
葛藤や恐怖を見ているものとは、その葛藤であり、恐怖であり、私であり、恐怖自身である時
恐怖を観察している私が、即ち恐怖であるとの正覚があるとき
そこに葛藤や恐怖や私はないといわれている。大空があるからだ。
心が知覚したり、考え出したりする大空ではない、本当の大空があるからだ。
気づき・理解とは私や私という観念に汚染されていないことだろう。
それは私やあなたという自他を区別する知覚を含んでいないことだろう。
その気づきはマインドと思考の姿をハッキリと捉えていることだろう。