この私
この私とは、非個人的な「心」、汎私、汎マインドそれ自体ではないだろうか
地球の全人類、生物の全てが「私、私」と思っているが、その私は全く同一のマインドではないか
・・・と、近頃しみじみと思われることはそういうことだ
この私、この心、この意識は個体での程度の差はあれども
マインドの全ては構造上からして自と他に、そして主体と客体に分離していると信じており
それが故に、その汎マインドが、私は個人で、私は私なのだ、私が考えており、私が生きており、私は実在しているのだと
私は身体であり行為しているのだと信じているその「私」という虚構が続いている。
が事実は、全くその逆で、汎心・マインドが「私と言う虚構」を実感しているだけに過ぎない。
心が即ち、他と分離した私という実体感覚を持つ虚構・無明であり、私という個人の本質であるように思える。
個々人とはその汎心そのものなのではないか。すべての人類の意識、心とはそのマインドのことだ・・と
実際の所、意識の中身とは何一つ私のものではない。私自身こそその意識だからだ。肉体に入った者だ。
そしてこの心・意識は去来している。
この汎心、即ちマインドとは自他に分離しているので、
対象と主体は分離していないのにも拘わらず、また内部と外部はひとつであるのにも拘わらず
対象と主体とは異なっている、内部と外部は別々だ・・としてマインドが知覚し認識しているのではないか
この私達人類の知覚、認識はこのように誤解しているマインドそのものであるといえる。
マインド自体、心自体、思考自体が自らは個別、個人ではないのにもかかわらず、「分離している私」と錯覚している無明なのではないか
個性も人格もその特性も性格も、指紋や生命と同じく被創造物なのではないか
野に咲く一輪の花と同じくそれはそこに創られてあるのではないか
心も作られてあるものであり、脳を通じて出現している。
心が「気づき」によって直視されたるとき、心は晴れ、本来の「心の基底」が出現されるといわれている。
瞼の開閉や、舌の絶妙な動きと同じく、呼吸も、心臓の働きも、生も死も、行為も、そしてこの悲しんだり、喜んだりする心も、
そしてその心が生み出している心の記憶である私・自己意識も、喜怒哀楽も生起している。
私とは起こっている。
即ちこの私の意識も創造されてここに生じている。そして去る。
私・自己意識とは生じたものであり、それ故に滅するものだ。
私とは諸体の頭脳を通して心が出現するとき生じて、心が去るとき滅するのだ。
私が意識しているのではない、どうして私に意識を生み出せようか
私が考えているのではない、どうしてわたしに考えたり出来るのだろうか
私が記憶しているのではない、どうして私に記憶を生み出せようか
私が行為しているのではない。どうして私に肉体を動かし、諸体を統合させ行為することが出来ようか。
心がこの私を産み、記憶という機構がこの私であり、起こっている行為が「私が行為しているという錯覚」を生み出しているのだ
起こっている思考が、思考している私を生みだしているのだ。
思考が私そのものなのだ。私が思考しているのではない。思考が私だからだ。
私が恐れているのではない、恐れそれ自体が起こっており、その恐怖が私が恐怖しているという私・実感を生み出している。
どうしてこの私に恐怖を生み出せようか、恐怖が自身である恐怖を対象として知覚し認識しているのだ、
それが恐れているこの私なのだ。
それゆえに思考なく、私なく、恐怖を正見しなさい。正見したとき果たして恐怖はあるのだろうか・・といわれる。
私が自惚れているのではない、自惚れという自尊心が、私を産みだしているのであり、どうして私に自尊心を作り出せようか
私が考えているのではない、思考が起こり、その思考それ自体が私と言う実体感覚を持っているのだ
私が意識しているのではない、意識が起こり、生起しており、
その意識そのものが分離しているので私と言う個別の実体感覚を実感しているのだ。
行為が行為している私を生じ、思考が思考している私を生んでいるのではないだろうか
けれどもそれは本当は行為が起こっているだけ、思考が起こっているだけなのではないだろうか
私も起こっているだけなのではないだろうか。
私は全く存在していないのではないか、個人はいない。私はいない、私は起こっている。
思考も、行為も、そしてこの私も起こっている。のでは・・・
・・・と考えたりする今日この頃である。