かくの如くあらしめているもの
私が咀嚼しているのか?それとも咀嚼が起こっているのか?行われているのか
私が瞼を開閉しているのか?それとも瞼の開閉が起こり行われているのか?
私が息しているのか?それとも呼吸が生じているのか?行われているのか?
私が筋肉を動かし行為しているのか?
それとも筋肉を動かすことが起こった後、私・記憶に認知が起こり
私が行為しているとの錯覚である(通常の実感)が起こっているのか?
私が味わっているのか?それとも味覚が生じ、全人類が同様の味覚をしているのか?
私が考えているのか?それともその考えることの中身とは全人類が同じ脳の構造である故に
その同じ構造の脳によって、同一規格の暴力と性欲と嫉妬心と猜疑心と自尊心等が生み出され
同じ記憶機構が働いているので、人類は同じ意識内容、知覚内容、自己意識であるのだろうか?
全人類は同一規格の脳の働きによって生み出されている記憶の同じ反応、同じ内容物なのではないか?
それらの私個人の独自の思考、感情、感覚、知覚、統覚とは、全人類が全く同じ脳であり
それらの内容とは地球上で同じ同一規格の脳によって生み出されている意識・心なのではないか?
美しい自然が生み出されているように、私達もその自然を生み出しているものによって
生み出されたものであり、その純粋意識によって使われているものなのではないか
「私達が所有している脳」なのではなくて、その人類共通の同一規格の脳が私や私達を生み出しているのだ。
私達とは脳の結果であり、脳の記憶内容であり、脳の記憶の反応であって
脳を生み出し、脳を作動させ、脳をあらしめている純粋意識なのではない。
私の頭脳なのか?それとも、全くその逆で頭脳の働きが私という個別の意識そのものなのではないか?
私の心なのか?それとも頭脳によって生じている意識が心であり、心がそれぞれ私々だと言っているのだろうか?
その全人類に全く同じ内容の心が、全く同じように働いており、それが即ち私だ。
私とは条件付けられている脳によって生じている記憶の反応なのだ。
その記憶の反応の内容がこの意識なのだ。
そして、その心・意識の内容とは主体と客体の分離であり、二元分離であり、私と世界の分離だ
意識し意識されている私とは、即ち既知である私とは
その思考、それ自体であり、その記憶の反応だ
競争心、利己心、感動、怒り、暴力、愛憎、恐怖心、不安心、自尊心、感謝と好悪、などよく知られているものであり
そしてそれらの記憶とその反応、さらにその反応の当然の帰結である各信仰、各宗派、各教えなどである。
全人類の共通の脳とは条件付けられており、数%しか働いておらず
その脳が生み出している意識、思考、心・・・・
それこそがこの心であり、日常に意識され、意識している私自身なのではないのか。
そしてそれら記憶群がそれぞれ「私は特別だ」「私が生きている」「私が行為している」「私が選択している」
「私が思考している」「この肉体や心は私のものだ」と言っているのではないか
この知覚している私・自我とは、単体ではなくて複数の自我なのではないか。私とは複数なのだ
通常の知覚している私とは、単一ではなく複数であり
ある状況によってそれぞれ異なる私自我が反応している
私を構成しているのは、ここの記憶群であり、同じ脳で作動している複数の私群だ
その記憶群は脳が単一なので、自分は単一で個別だと思い込んでいる
だがそれら記憶の反応である思考とは決して私やあなたのものではなく脳のものであり
その脳とは脳を創造し作動せしめ使っておられる叡智のものである。
私達記憶とは脳を生み出し、心を使って世界をあらしめている純粋意識のものである
世界をあらしめ、維持している純粋意識が脳をあらしめ、心をあらしめ、私達をあらしめているのだ
私達をかくの如くにあらしめておられるのはその叡智である未知なる純粋意識だ。
この意識「私個人の心」とは条件付けられている全人類に等しい脳の反応なのではないか
私とはその数%しか働いていない、条件付けれている脳によって生み出されている記憶であり
その全人類共通の機構である記憶から生みだされているのが「私」という意識に他ならないのではないか
思考そのものが私であり、それは根源によって生み出されている
そして、それらを生み出し、維持され、動かされている純粋意識が
この「私」という錯覚の意識を使って世界をかくの如くあらしめられているのではないか