自己否定
自己否定とは自己が自己を否定すること
この自己が自己即ち私・自分自身を否定すること
それは想定する高次の自己が低次の自己を否定するのではなくて、実際の自己が実際の自己自身を否定することだ
だがここで注意したいのは自己否定とは自殺ではない。自殺とは実際には自己逃避であり、自我が生き延びることであるからである。
それは他者に対する暴力と同じように、自己に対する暴力であって、自殺とは自己否定ではなく、自己から逃避する自我の行為である。
自己否定とは自殺の真逆で自己が自己のあるがままの全てを受け入れ、完璧に自己を抱きしめることでもあるからだ。
これに反して自殺とは自己という内部及び外部からの逃避であって、自己否定ではない。
自己の延長を図っている自我が生き延びようとする行為であるからだ。
だがそれが行為である限りは、自殺も他殺も同じように起こっている事柄であり、既に決まっていると云うことであろうか。
行為・・それはDNAに書き込まれており、過去が現在として表出していることがらであろうか。
本当の自己否定とは、実際には十字架と復活のように、自己が自己を見ることによって、自己だ、と言っているものが離れ
この自己否定によって自己ではない「自己・自我が含まれないもの」が肯定されること他ならない。
自己というものを否定することによって自己に汚染されていない「本来の面目」が出現することなのだろう。
覚者達が言う、闇が晴れたとき、始めから在った光が、「実在」が、姿を現すということなのだろう。
さて上記のことに関与する行為ということ、この行為とは既に決定していると言うことについてはどうだろうか?
私達が書くこと一つとっても、指先が動き、PCに打ち込むために、眼球が正常に機能し、瞼が開閉し、心臓、呼吸などが動き、脳神経と
自律神経系と体制神経系が完全にマッチプレーし、筋肉が動き、それらが完全に連携して成り立っている・・どれをとっても神業である。
この単純な体を動かすことさえも実に驚異の連係プレーが必要であり、それはこの自分が行為していると実感している私には到底出来ない。
・・・私達人類の全ての行為は、実際にはここで起こっている神業なのである。
行為とは未知なる神が為しているのであって私ではない。・・・・
そしてこの”「私が為しているという」私”も「起こっている肉体の行為」の一部として起こっている・・・それは表情を見ても歴然としている。
爪が伸びること、髪が伸びること、食べてそして排泄することなどと同じ様に、「私・自分」も脳が起こしていることなのだ。
これも神業である。
神業により私が生じ、そして脳が行為を起こし、知覚が起こっているのだ。
肉体に関する情報の全て、それは胎児の段階で書き込まれており、生まれたときには死ぬ時間も決まっていることだろう。
ラマナ・マハリシ達は何を為すかも誕生時には決まっているという。
この肉体が生じさせている自己と言う意識・記憶(人格)を生じさせているのは神の業だからである。
だがこの人格や個人は肉体から生じている自己意識であり、この個人・人格を自分と思っているのが肉体に入った「私という観念」だ。
この肉体の私と同一化した「私という観念」が、私は肉体だ、私が生きている、自分が行為している、自分が仕事をしている、あの人が騙した、この人が助けた。
あの人が自分を侮辱した、私は愛深くならなければならない、私は正しく生きねばならぬ、私は苦しんでいる、私は自尊心が傷ついた等々と云って苦しんでいる。
人間に於いては行為はむろんのこと、脳が関与している一切のことは起こっていることであり。内部も外部も脳が起こしている事柄である。
思考、感情、知覚も認識も含め、歩くこと、排泄すること等々、実際には私達には何も出来ないし、何もしていない。これは神の業だからだ。
喧嘩することも、契約することも、書類を作成することも、好きになることも、暴力を振るうことも、盗むことも、助けることも、殺すことも、救うことも
才能があることも、才能がないことも、良い性格も、悪い性格も、
実際には起こっており、誰も何もしておらず、何も出来ない。意志は起こり、選択は起こっている
個人が選択しているのではない、個体に選択が起こっているのであり、個人は選択はしておらず、選択が脳にやってきて起こっているのだ。
自分が殺し、自分が殺されたという実感は起こっている事柄だ・・・そしてこれは正しくない。
脳の間違っている情報を脳と結びついている「私という観念」がそう思い込んだのだ。
内部も外部も起きている・・にもかかわらず、私達は自分が為して、自分が仕事をして、自分が選択して、自分が欲望して、自分の人生で
私は私である、従って他人も私のように主体であり、それぞれが他とは異なっている自己であると思っている・・・・・
そして、そのように間違いをしている私とは、肉体に入った「私という観念」の私だ。
現段階での私達人類の意識とは、この脳が生み出している人格の私と、この脳に結びついた「私という観念」の私が作動している。
だがしかし、これらの私に関わらず行為は起きるように起こり、誰にも関与することはできない。
出来事は起こっているように起こり、どの私も誰も出来事に関与することは出来ないし、誰も起こることには関与していない。
肉体が関与するからである。そして肉体は神業である。脳は神の業である。
肉体は行為や知覚と同様に起きている事の一部であるからである・・そして行為は続いていくだろう。
私やあなたが行為している・・・と、その様に思っているものとはだ・れ・か?誰であろうか? 誰がそう思っているのか?
それは肉体に結合した惑星地球単位の私という観念である私だと思っている。それは地球を覆っているマインドであろう。
自分が選択し、自分が自由意志で生きている・・・誰もがそう実感している・・だがそうだろうか?本当にそれは正しいのであろうか?
真摯に、熟考するとき、私は本当は選択したり、自由意志で決定しているのではなく
選択も自由意志も起こっており、仕事も作業も思考や記憶そのものが起こっている現象であることが分かる。
起こっていることは過去であり、知覚可能なこと、即ち知覚そのものが起こっている事柄なのである。
私達は何もしていない。何もしていないのみではない何も出来ないのである。
何も関与していないのである。
何もしていないのに、自分が為していると思い込んで、どうしたら良いのかと心配している私とは
一体誰なのか、誰がどのようにしたら良いのかと心配し、明日のことを心配しているのか?不安に怯え、心配しているのは
どの私か?
不安に怯え、良くなろうとして、必死に藻掻き、自己中心的で愛が無いこの私とは誰か?
それはこの地球を覆っていて肉体に一体化した私というマインドだと推測される。
賢者達はその私といっている私、自分が行為して、自分が選択し、自分が自由意志で生きていると思っている私
その私を見なさい、その私自体を見なさい、と教えられている。その見ることが自己否定へと繋がっていく。
その愛ではない自己を否定しなさいと云っている。観察者である私を否定しなさいと言っている。自己が自己を否定するのである。
この私をあるがままに「見なさい」、自己と言う私を、私と言っている私、心であり思考である私を見なさいと言われている。
ラマナ・マハリシ的に言えば私という観念の根源に至りなさい、そうすればそれは実在せず真我が顕れるでしょうとなり
クリシュナムルティー的に言えば恐怖を見ているものが恐怖自体であるとき、そこに愛がある・・・と言うことかもしれない
起こっている行為、思考、感情、欲望、自己をそのまま直に見なさいと
私が私を本当に見るとき、そして自己が自己を否定するとき、そこに自己ではない未知なるものが誕生していると言われている
自分が行為し、思考し、感情し、欲望していると実感している私のことをあるがままに見なさいと
これこそがワーク、大いなる十字架と復活だと云われておられるのではないか。
これこそが、現象世界におりてきた私達の仕事なのではないか・・・と思うこの頃である