戻る












自我と真の私の区別とは



自我(エゴ)と真の私とに区別しているのは勿論、自我(エゴ)なのではないか。

真我には自我と真我の区別はないことだろう。

というよりその非分離の中では自我が見当たらないということなのだろう。

真我の目には全てが真我と映っていることだろう。そこでは主客の区別がないからだ。

観念としてではなく事実として山川草木国土悉皆成仏と見えていることだろう。


自我と真我を区別して知覚し、真我を推測しているのはマインドであり、

それは思考であり、全人類に同じ共通の私という観念ではないか。


その自我と真我を分離して、区別しているものは私という観念に他ならないのではないか。

それは如何に深遠であっても思考・観念・考えに他ならず、機能しているのは思考に他ならない。

それ故に思考が機能している限り「私は実現した」という私・自我における真我の体験や知覚とは、

自我であるマインド・思考が投影したものであるといえるのではないか。



私が残っている限り、すなわち自分とは別の他者を見ている目である限り。また

内部と外部が分離していて内面と外面が異なっていると見ている限り、その目とは思考であり

観念領域内にあり、根源が生み出している神聖なる錯覚だといえようか。

その神聖なる錯覚が、自我であるこの私達であり夢見、熟睡し、覚醒しているこの現在意識に他ならない。


自我が体験する真我との融合体験、それは脳内麻薬の抽出に於ける一時的脳内体験であり、

自我(エゴ)・私という観念の範疇に有るといえるのだろう。

そこにはその体験をしている体験者がまだ残っているからだ。


気づきには自他の区別や、自我(エゴ)と真の私の区別は

ありえないだろうからだ。

ゆえに自他一如とか自我即真我とか煩悩即菩提とか言われている。



思考は真我と自我とを別ものとして分離して見ており、

真我実現の方法や、融合や、至る道を求めているのはその思考である心であり自我なのではないか、

自我が知覚し体験する真我発見とは、それは真我ではなく拡大した自我なのだ。

というのも、そこには自我と真我の区別があるからだ。観察者がいるからである。

本物であるなら自我が真我と合一するのではなく自我が終焉することが起こるのであると思う。


又この事を信仰や考えや教学や教えや知識でもって単に思考しているだけなのに、

理解したと錯覚するのも自我なのだ。というのも、それが思考の限界であるからだ。

だが、この事柄は考えや知識情報の問題ではなくて、実際の知覚の問題なのだ。

針に指されて痛いのに、自分は肉体ではないから痛くないと言い続けるようなものだ、

気づきが誕生していないのに

痛くないと嘘を言い続けているのは心である自我だ。



気づきという真の私においては分離しているものは何もない事だろうから

そこには自我(エゴ)と真の私の区別はないし、自他の区別はないし、主体と客体の区別はないことだろう。

気づきには

内部と外部の区別もないし、過去現在未来という時間がない、

それは夢見と熟睡と覚醒の区別はない、といわれている。

気づきはその三つの意識状態ではないからだ。その三つを観照している意識だ。

この三つの意識状態とは脳の状態であり、心の常態なのだ、気づきはそれを超えていると


自身を内部と外部に分割し、立ち向かう人の心を自分ではないと見ており

自分自身を自我と真我に分けているものとは、

それは自と他を分離して見ているマインドの目であり、気づきではないことだろう。

それは心即ち脳の意識であり、脳を創造し、維持し支えている意識ではない。


その気づきではないものがみている目には、

自分はこの個別の有機体であって他の有機体ではない・・と知覚されていることだろう

と上記のように私は思っているが、

と、その様に思っているもの=私自体とは地球上の全ての有機体において同一のものだ。

その同じものが個々の有機体に於いても同じように機能している、それが暴力であり恐怖だ

心は私のものや、あなたの心ではない、その逆で私やあなたとは心の一部である。

それがマインドであろう。

この私の目とは自我の目、心の目であり、決して気づきの目ではない。恐怖の目なのだ。



その肉体と結合した心・マインドは自身が分離しているので自分自身を分離させ、

私とあなたに、即ち自と他に、

嘘の私(偽我)と真の我とに分割して真我を措定しているわけだ。

そのものはあくまでマインドという「思考」であるものに過ぎない。

未知なる私にとっては分離しているものは何もないのだ。意識だからだ。


考え=思考は、必ず分割するので自分を分離して上位と下位に分けている。上位は観察者と呼ばれる。

真我を探求し、渇望して、一体になろうと真我を求め修行し模索しているのは自我である。

そのようにして自分が残ったままで真我を体験したつもりになるのは心ではないか。

この体験には依然として体験者と体験されるものとの分離が残っている。心が未だ残っているからだ。

心が残っている限りその心を映し出す鏡が自分の前に何度でも立ち現われてくる。

その鏡という自己を映し出す鏡は恩寵でなくて何だろうか。



その分離が残っている限りはそれはマインドの領域にあり、諸体の脳内の現象に過ぎないといえる。


それゆえに自我と真我に分けて真我に到達しようとしたり、

自我と真我の融合を求め方法を伝授され?!実践したりしているものは

真我ではない自我(エゴ)すなわち思考なのだ。思考が自我だからだ。


自分は他人とは異なると思っているのは

他ならぬ他人自身である「マインドの私」であり、

それは同じく他ならぬこの私自身である「マインドの私」なのだ。


外部を内部と異なっているものとして知覚して体験しているものは、

この自他に同一の同じマインドなのだ。同一のマインドの私だ。

私は他人とは違っていると思っている自他に同一のマインドだ。


自分と世界を異なっているものとして知覚し認識しているものとは、

この自他に同一の同じマインド(同じ私)なのだ。


それは肉体と同一化しているので自分の子どもと思ったり自分に国籍があると思っている


そのマインドが肉体と同一化した結果として、自分と他人とに自らを分割させている。


心にこの個別の身体と脳を私だと実感させているのは神聖なる錯覚である。



この名前と記憶を持っている私という個別の有機体と

あなたという名前と記憶を持っているほかの個別の有機体に於いても

全く同じように機能しているのは同じマインド、まったく同一の心。

それが私という観念であるところの人類共通のマインドなのではないだろうか。

この個人の私やあなたとは人類共通のマインドなのだ

このマインドである私とは私の私であると同様にあなたにおいても私であり、

それは全く同じ心、即ち分離している私という観念・自我なのだ



またそれは全く同じように自分と他人を分割してしまっているように

内部と外部とに分割し、真我ではないのに私をも自我と真我に分割する。

そして真我にいたろうとし、その方法を実践し経験し体験する。


しかし実践しているは思考であって、決して気づきではないといえる。

本来は同じ自分であるのに自分を自我と真我に分けている。想像上の真我を投影するのだ。

・・・それが思考=私という観念がしていることだ。


けれども思考ではない「気づき」においては、それは自他は一如であり、真我と自我の区別はないのではないか

過去現在未来がないように、

ここと彼処、過去世と現世と来世、彼岸と此岸、善と悪、一部と全体という分離はないことだろう。

では何故、思考は自分自身(思考)を分割するのだろうか、

それは思考自体が分離、分割、二元の働きそのものだからだろうか?

それは根源によって使われているのではないか?



気づきに於いては(意識に於いては)自分と他人とに分けたり、低級我と高級我に分けたりはしないだろうし

決して内側と外側に、内部と外部に、自分と世界を分けたりすることはないことだろう。


と考えたりするこの頃である