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脳は私の脳ではありません




脳はわたしの脳ではありません
私は私のものではないからです
私には脳は創れません
脳が私を生み出しているのです

脳は個人のものではなく人類全員が全く同じ脳ではないでしょうか
その計り知れない脳が同じように条件付けられているのです
その条件付けが私という個人の心を生じさせているのではないでしょうか

心は私の心ではありません
心は私が創ったのではありませんから
心が私を創りだしているからです
というより心が私々々・・です
心は私という観念なのではないでしょうか


意識は私の意識ではありません
意識は到底私が創ることは出来ないからです
意識が私を生み出しているのです


思考は私の思考ではありません
考えることは記憶があるからであり
私が記憶を創ったのでもそのシステムを働かせているわけではありません
脳を創り維持している叡智が記憶を使い思考を生み出しているのです

五感や知覚はわたしの五感でもなく私の知覚でもありません
どうして私に視覚や味覚などという最高度のものを生み出すことが出来るのでしょうか
感覚を知覚し認識する統覚機能を生み出すことが出来るでしょうか
この感覚も知覚も思考も統覚機能も起きている事です、
それらは私がしていると言いますけれど私がしているのではありません
どうして私にそんな最高度のことが出来るでしょうか


実は
私も私のものではありません
私とは私という観念であって
私という観念は私が創ったのではありません

どの次元の私も私が創ったのではないからです
この「私が、私が」という私は創られたものであって
私は私が創ったのではありません
私・自我は私・自我が創ったのではありません
どうしてこの私・自我を私・自我が創り出せるでしょうか


自己意識を持ったロボットが自分が意識していると思っても
その意識とは、ある条件付けの範囲内で機能しているのみであり、
そのロボットの電源が失われれば機能しません
人間はこれより遙かに複雑で神聖です
人間が創ったものではないからです


さて
体は勿論私のものではありません
呼吸することは私には出来るはずがありませんから!!
勿論、心臓を動かして血液を全身に巡らすことなどどうして私に出来ましょうか
私には食事をしたり、消化吸収したり、排泄したり
神経と筋肉を連携して身体を動かしたり出来るはずがありません・・・・
行為を成り立たせることができるのは肉体を創った叡智のみです

常識では自分が自分の身体を動かしていると考えられていますし
誰でも自分が動かして行為していると実感しています
がしかし、本当にそうなのでしょうか?
体を動かしているのは体を創造し維持している叡智でしょうか?
それともこの「行為していると実感している私」でしょうか?

行為という肉体を動かすことがこの自分という「自己感覚」には果たして可能なのでしょうか?
それは、脳が少しでも傷ついたら指一つも動かせないことを見れば明らかなことです
脳のある部分が機能しなければ行為も意識も従って私も、知覚も自覚も生じません
しかし生命は肉体をまだ支えています


脳が起こしている行為が「私が体を動かしている」という「私の実感」をも同時に
生み出しているといわれています。
行為とは本当は叡智でないと出来ないからだと思われます。

私には健康になることも出来ませんし、病気になることも出来ません
私達は朝昼晩と三度の食事をしますが
私が食べているのでしょうか?それとも叡智が食べているのでしょうか?
私には舌を動かして食事することが出来るでしょうか?味わうことが出来るでしょうか?
舌を動かし唾液と共に嚥下することは人間には出来ません
私には五感も思考も生み出すことは出来ません。
私こそ生み出された聖なる錯覚だからです


何の疑問も抱かれないこの私、
あらゆる生き物の当たり前の常識であるこの私こそが神聖なる錯覚なのではないでしょうか
本当はこのオートマティックな肉体精神機構が感じ思考し行為して生きており
私・私自身という「自己感覚」を生み出しているのではないでしょうか?


私には生まれることも死ぬことも出来ません
生まれること、死ぬことが起こっているのであり、私も起こっている結果だからです
私は生まれること、死ぬことの結果であり、私が生まれ死ぬのではありません
生まれることも死ぬことも不安も恐怖も起こっている事柄です
成功も失敗も、幸福も不幸も、結婚も離婚も
起きているのであって私がしているのではありません


この体は私の体ではなく、
行為はあらゆる素晴らしい器官+諸身体が連携しているので
動くことが、可能になっているのであり、それは
私の行為でも私の肉体でも、私の感情体でも、私の思考体でも、私の霊魂でもないからです
行為は私の行為ではないからです、行為は肉体精神機構によって起きていることだと思います


即ち
叡智が肉体精神機構を通じて行為を起こし
その行為の後に
「自分が行為していると実感する記憶の私」の反応が生じているのだと思われます

行為と同様に
怒りや、恐怖や、不安や、イライラや、羨望や、欲望や、衝動がやってきて
その後に自分が怒った、自分が恐怖していると錯覚する記憶の反応が起こっているのだと思われます


通常、自分が思考している、私が考え、そして自分が思っていると実感されています
しかしそうでしょうか?
本当にそうなのでしょうか?
条件付けられている記憶システムから
その記憶の条件反応として考えや思考や思いが起こっているのではないでしょうか?


脳若しくは記憶が働いて、その条件付けが機械的に反応しているだけなのではありませんか
私が脳を動かしているのではなくて
私が思考しているのではなくて、
脳が働き脳が思考しているのであって、
その脳の記憶が「自分」と思っているのです

至高の叡智が脳を動かし脳が「自分?}を生み出しているのではないでしょうか
脳は私が創ったのでも、私が維持しているのでも、私が使っているのでもありません
従って私とは脳が生み出したもので、
私とは脳を機能させている叡智が使っているのだと思われます


思考は「私の思考だ」「私が考えているのだ」と言いますし
思考は「私が考えているのだ」と実感していますけれど

その思考の記憶である私には
思考を生み出すこともなく
意識を生み出すこともできません
脳が思考と意識を生み出しているからです
正確には脳を使っている聖なる根源が生み出しているのではないでしょうか

根源が脳を使って行為し、行為していると思っている私を生み出しているのです
根源が行為しているとするなら、根源が思考しているとするなら
一体どこに私はいるのでしょうか?
私とは神聖なる錯覚なのではないでしょうか?


思考は幾重の脳という肉体精神機構から生じており
思考も意識も生まれているものです
私がその肉体精神機構を生みだし維持しているのではない以上は
この私とは私のものではなく
私とは結果であることになります
私のものはなにもなく、私が生み出したものは何もありません
私さえも私のものではありません、根源のものです
「私が」「私の」というこの自己感覚、私自身が結果である以上は

私自身とは「聖なる錯覚」といえるのではないでしょうか?


それは丁度
私には夜、眠ることも、
朝、目が覚めることも
目が覚めてからの日中の意識も
眠って夢を見ることをも創り出せないように
(けれども常識では私の夢であり、私が作り出した夢だと思われています)
(常識では私が眠り、私が熟睡した、私が夢を見たと思っています)
この私自身も
私が創ったのでは決してありません
私は創られているのであり、私とは神聖なる錯覚です
私とは錯覚それ自体ではないでしょうか
その錯覚を起こせるのは至高の叡智以外にありません
私とは叡智のものなのではないでしょうか
私とは私のものではありません


そして
この私の脳だ
私の心だ
私が夢を見ているのだ
私が知覚しているのだ
私の私だ
私の自我だ
私の思考だ
と、その肉体精神機構によって生み出された「自己感覚」が思い込んでいるだけです
肉体精神機構によってその私という「聖なる錯覚」が生み出されているのです
この私、自己感覚は虚像です
神聖なる錯覚です
ただ一つなる根源が心を用いて多くの私を生み出し
その「私」「私の行為」「私の思考」を使って自らが
すべての人類を演じておられるのではないでしょうか?
自らが「多くの私」、その私による「多くの行為」、その私による「多くの思考」を演じ、
表現されておられるのではないでしょうか

・・・
その
思い込みとは、錯覚とは
森羅万象と等しく
生み出されていることであり
自我という錯覚は顔の表情によく現わされます
顔の表情とは錯覚自身であり、神聖なる錯覚です
顔の表情がその錯覚を現しております
錯覚が顔の表情なのです
錯覚しているものは顔の筋肉に表現されるのでは
ないでしょうか?

畢竟
自我とは、私とは、神聖なる錯覚であり、根源が使用されているものです
知覚する主体も、知覚も、知覚される対象も聖なる錯覚だと思われます
起こっていること、生じている事、やってきていること
自己と言う主体も対象である客体も含め何一つ分離していない

教えられています

それ故に
分離しているとの思いの中に恐怖と悲しみと苦しみがあり
分離していないとの正見の中には恐怖と悲しみなどは存在しているのでしょうか



この正見とは
あるがままをあるがままに思考なく凝視することだと・・教えられています