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脳に入った私





脳の中、
心の領域、即ち諸体の脳である物質界、幽界、霊界に入ったのは

至高なる全体性である生命と連れだった、私という観念に汚濁されている個別的霊魂である

(脳とは人格であり、記憶であり、行為であり、知覚であり、思考であり、世界であり
時間であり、空間であり、感情であり、出来事であり、仕事であり、家族であり
社会であり、知覚される起こっていることである、それらは脳内で起こっている)

そこへと、

吸う息と共に肉体に入り

吐く息と共に

肉体から離れるのは(だが物質脳から離れても幽体脳に縛られている)

私であるところの個別的霊魂+私という観念(根本無明)ではないか

この肉体と同一化し、心と同一化しているのは、私という観念に浸透されている個別的霊魂である

脳と同一化しているが故に眠るのだ、起きるのだ。





朝、目が覚めたのは、
肉体の脳と同時に

まず始めに

① 個別的霊魂  
 (だがしかし日常の意識では、すぐに思考の背後に退いてしまう)

そして

② 私という観念  
(自我の反応として、根源的な恐怖を感じている苦悩・悲しみ・不安・恐怖である)

さらに

③ 脳であり諸体の脳の記憶である人格である。
(脳の条件付けの反応であり、通常の日常の思考・意識である)

この次元が異なる三つの私が朝、順番に目を覚ましたのである。



ただ、個別的霊魂の目は開いていないので高次の知覚、高次の心、高次の意識
全体性の知覚、高次の感情、高次の目は、目を覚ましていない。


高次の目が開くと言うことは
肉体の死ではなく、私という観念の死がこの個別的霊魂に起こるとき
個別的霊魂の目は開き、全体性の知覚と意識と心が誕生する
個別的霊魂を通じて真の私が顕現したということなのであろう


個別的霊魂は私という観念から解放されて
本来の未知なる知覚、心
自己と言う観念がない全体性の心、
全体性の知覚に出会うことになるだろう


そこで
個別的霊魂は自分の大元である
未知なる全体の私に帰還し、
その未知なる私と融合することが起こるのであろうか
そのとき、
「思考なく見る」「あるがままをあるがままに見る」ことが誕生するのだろう




見ることとは
低次の見から高次の見まで、起きている事であり
人格や私という観念や個別的霊魂には関わっていない
私という観念や個別的霊魂こそ広義では起こっていることだからだ


知覚も
低次の知覚から高次の知覚まで起きていることであり


思考も
低次の思考から高次の思考まで起きている事であり


心も
低次の心から高次の心まで起きている事であり


この私も
低次の自我から、高次の私・自我のない私も起きている事である

自分が為している
自分が生きている
自分の人生だ・・・
との実感とは
神聖なる根源による、根源の起こしている錯覚なのだ

根源が錯覚を起こし、錯覚を経験し、錯覚から自らを解放させる。


私・個我とは、個別的霊魂とは根源の表現媒体なのであり、

主体は未知なる根源なのだ。

私達を通じて生きておられるのは未知なる根源である。

私はいないのだ。

私という実感は根源が使っている私という観念であって

私とは聖なる錯覚なのだ。



と、その様に教えられているのではないか