クリシュナムルティーは誰に話しかけているのか
クリシュナムルティーは言う
「あるがままをあるがままに見なさい」
「私なく見なさい」
「思考なく見なさい」
「心なく見なさい」と
その見なさいと言うことは、一体誰に、若しくは、どの私に対して彼は話しておられるのか?
誰がそれを聴いているのか、聴いているのは誰なのか?
クリシュナムルティーの言葉を聴き、本を読んで感心しているのは誰なのか?
聴き、読み、語りかけられているのは勿論「私」なのではあるまいか?
ではその私とは、一体誰なのか?それは知覚し、意識している私という観念なのではあるまいか?
私達が私達自身である「私という観念」のなかに深く静かに真剣に入っていき
私が私自身の中に非難なく、逃避なく、同一化なく、動くことなく、深く深く入っていけば
私を観察している私とは、観察されている私に他ならないと教えられる
冒頭の言葉はそれから先の事柄、即ち「思考なく見る」ということを、Kは言っているのだ
「私なく見なさい」「思考なく見なさい」「心なく見なさい」とは
そしてこのあるがままを思考なく見ると云うことは、「すること」「なること」ではなく
起きることなのだと云われる。「見る」とは為すことや至ることではない。
至ろう、為そう、見ようとしているところの、至っていない、為していない、見ていないものに気づく事である
報酬や結果や成果を期待して、獲得しようとし、至ろうとし、なろうとして方法を実践するものは
取引をし、利益を得ようとしている自我であって、自我がある限り「見る」事は起こらない。と
自我が有る限り自分が行為し、自分が生きているという実感(実は錯覚)は続いていくと。
従って私達である私という観念にとっては、「思考なく見る」ことが誕生する前に
観察しているものは観察されるものに他ならない・・・ということの正覚
全面的な覺知が起こらねばならない・・すなわち生きながら死ぬこと、自我の終焉である。
これは一大事である。
朝、目が覚めた私、即ち思考し、感じ、知覚し、記憶している私とは、私という観念であって
全人類が同一に個別だと実感している「この私」とは、実体のない虚偽の観念に過ぎないこと
すなわち、知覚し、感じ、記憶し、思考し、生き続けている私とは、
全人類、いいや全ての有情、無情に同一である「私という観念」である
ということに他ならない。と
Kが絶えることなく「心なく見なさい」と語りかけておられるあなたとは、
その見ることが可能なあなたとは
それは
この全人類の同一で分離している個別の「私」ではない。
(この私とは全人類共通の脳の条件付けの結果、生み出されている虚偽の実感である)
これらすべてに共通の「個別の私」とは分離している心に他ならない
心が私であり、心がないとき「心なく見ること」、「私なく見ること」が起こるからである
この私とは自我の私であるから、自我が「私なく見る」事はできない。自我こそ私だからだ
この私とは思考であり記憶であり、その反応であるから
思考であり記憶であり心が見ていることは
自身が分離であるから、必ず分離し、対象化して自分とは異なった客体と捉えてしまう
従って正しく見ることはこの心の私には不可能である
この心が死滅し、蝶のよう再び生まれ変わらなければ不可能である。
見なさいと言われて、見ることが可能なのは、それらの心であるところのこの私にではない。
彼が見なさいと言われて、見ることが可能なのは
私という思考や記憶や自我でもなく、心でもない
「私という観念」である根本無明でもない
彼は(Kは)心なく、私なく、思考なくという点を特に注意するように言われているからである
その心でもなく、私でもなく、思考でもない私に見なさいと言われているのだ。
それは
行為している私に対してでもなく
行為していると実感している偽りの私に対してでもない
何故なら自分が行為しているということの実感は「自他に分離している私」によって成り立ち、
その実感こそがその”分離した「私という観念・私」”の姿・状態であるからだ
行為している実感と行為している私とは、行為が引き起こしているのだ。と
Kが「見なさい!」
と語りかけられている私、
実感として行為していないことを自覚し
そして心なく見ることが可能であり
本来は純粋なる意識そのものであるにもかかわらず
「私」や「心」や「思考」や「記憶」に同一化している「窓」ともいうべき個別的霊魂のことではないか
(現在のところはこの個別的霊魂は脳と一体化しているので眠っている)
彼が見なさいと言うのは、「見る」ことの可能性のある「本来の無我・無自己」に対してではないか
見ることの可能性が有る「窓」というべき私に対して彼は見なさいと語りかけておられるのではないか
本来の個別的霊魂の本質は全体性であり無我・無自己であるからだろう
Kは従って
「私・自我」とはあなたではないのだ
「行為している」と実感しているあなたとは、あなたではないのだ
「心」とはあなたではないのだ
「思考」とはあなたではないのだ
「記憶」とはあなたではないのだ
「脳と一体化して眠っている統覚機能」すらもあなたではないのだ
勿論、この素晴らしい「肉体」とはあなたではないのだ
性別を持っている精妙体も、またあなたではないのだ
”自分だと知覚している「あなた自身」”とは私という観念であって、それはあなたではないのだ
と、いうことを前提として話されているのだと思われる。
それゆえに、あなたとは、それらのものではなくて、
心を超えている意識であるので
「見ること」が出来るのだから「思考なくあるがままを見なさい!」と言われるのだ。
あなたではないのに「私だ」といっている「心」というものを介在させることなくして、
あるがままを直接に見なさいと薦めておられるのではないか。
起きているあるがままを、あるがままに(心なく・思考なく・私なく)
主体と対象の分離なく見なさいと言われる。
ただ現在意識のほとんど99%を占める私という観念は、
現在の段階の状態では、条件づけられた脳と一体化しているので
脳が眠るとき一緒に眠ってしまっているのだ
故に眠ってしまっている「脳という心・私という観念」を見なさいといわれる。
熟睡中に熟睡している”私という観念即ち眠っている心”を見なさいと言われる。
熟睡を見ることが出来るのは
心・脳ではないこと、記憶や知覚、私という観念ではないことは明白だ。
そしてさらに
その「脳という心」の熟睡を見ている、その「気づき」の中には
観察者と観察されるものの分離も区別もなく、
見ている主体と見られている客体の分離は存在しないことを
さらには、そこには、ここと彼処の区別はなく、過去現在未来の区別もないと
即ち
見ているものとは心であり、見られているものも心であり、
心がその主客の分離を生み出しているのだと
見る者と見られるものの区別・分離とは、心が生み出している虚偽であること
自分が対象として見ていたり、思いや考えが起こる限り、それは心の働きであり
この心が動いている限り見る事は起こらないと
見ているもの(主体)も、”その見ているものに見えているもの”(客体・対象)も同じ一つのものなのだと
それを分離し区別しているのは、マインド・心・私という観念それ自体なのだ
という、そのことの実相が見えている状態、
すなわち、理論や教えではなくその正見が「見ること・気づき」なのだ
そしてそれは「なる」のではなくて起こる事柄であると
ということをハッキリと教えておられる
これは勿論、現況の私達人類の意識の段階の状態ではなくて、
次元の異なる普遍的な意識の事を指しているのだ
さらには
そのことを覚知している「見ている目」とは、非分離の「愛」そのものであることを
私達に平明に述べておられる
Kはそのことを
肉体の私に対してではなく
感情体の私に対してでもなく
思考体の私に対してでもなく
記憶体という人格、個人の私に対してでもなく
カルマとサムスカーラに対してでもなく
この肉体と諸体とにつなぎ止められてしまって
それらの私を私と勘違いしている私という観念の私である自我に対してでもなく
諸体の脳の中枢である霊的松果体に接点を持っており
それら「心である私という観念」に覆われている
統覚機能である個別的霊魂の意識に対して語りかけているのではないだろうか
私にはそう思えるのだが・・・
ただこの統覚機能である個別的霊魂は「脳である心」と
一体化しているので脳が眠っているとき一緒に眠っている状態に陥っているのだ。
本来は気づきであるのに、脳と一体化しているので眠っているのだ
この個別的霊魂である意識とは熟睡中は、心(私という観念)と脳が一時的に休止しているので
心が働かず、心という対象化する働きが起こっていないので
心は何も対象を知覚していないという状態にあるが
この何も対象を知覚していない状態という、心(脳のある部分)の熟睡において、
熟睡を観照する「気づき」という高次意識が誕生していないのが
現在の殆どの個別的霊魂の状態であり
その結果、熟睡を観照することもせず、自身の内奥の全体性に気づくこともない。
目は閉じられているままだ。
だが個別的霊魂の内奥の高次知覚がそこに誕生している場合には、
脳の条件付けが一部解除され
熟睡中においても、「思考なく見る」「気づき」が誕生し、
熟睡を観照している分離のない純粋意識が自らを意識することが生まれる。と
この分離なく自らを意識する純粋意識とはハートに位置する高次の意識であり
熟睡中の観照とは脳の中枢部とハートの連携が復活したと云うことなのであろうか・・
・・・(私には分からないが)
いずれにせよ、私達は眠ってしまっていることに気がつかないでいる。
自分は目を覚ましていると思っている。
そう思っているのは、心を自己と取り違えているからだ
今、現在、熟睡してしまっていて眠ったままでいることに気がつかないのだ。
目は閉じたままだ。
熟睡、夢見、日中の知覚と意識は「眠ったままの個別的霊魂」の状態なのだ。
それは私という観念である心に覆われ塞がれているからだ。
心は自己を覆い隠しているものであるのに・・
「対象を持つ自分自身を自らを知覚し、自分として行為している実感のある心」を自らと取り違えている
私という観念である心が看破されぬ限りは眠りは続く・・
眠ったまま、朝、ベッドから起き、日常生活を送り、喜怒哀楽を経験し、老い、病み、肉体を離れ、また同じように
目が覚めることなく、再び新たな肉体を得て、心という眠りの中で私という観念に縛られたまま生き続ける。
それが彼によって語りかけられている個別的霊魂である
この輪廻のなか、私達は決して目が覚めているのではない。
朝に目が覚めたのは脳である心であって私達ではない。
この知覚し、認識している私とはクリシュナムルティーによって語りかけられているあなたではない。
この分離を知覚する意識とは、意識ではなく「私という観念」の心のこと、自我なのだ。
それゆえにクリシュナムルティーによって「心なく見なさい」と語りかけられているあなたとは
それらの自らが眠っていることに気がつかないでいる個別的霊魂の意識であるあなただ。
私達は眠っているのだ、
眠ったままなのだ。
この対象・客体を知覚し、この知覚する主体(心)によって知覚されている私は
「私という観念」であって本来の私ではない。
対象を分離して知覚し見ている私は、私という観念であって本来の私ではない
クリシュナムルティーが語りかけているあなたとは
いまのところは高次知覚が閉ざされ表面はすっかりマインドに覆われているけれども
それらもろもろの心の「私」ではない未知なる全体の私、未知なる本来の純粋なる意識に対して、
すなわち本来は「私」という分離したマインドを持たない純粋なる意識の窓に対してである。
その一点の内奥は全体なのだ
語られているあなたとは本来は無垢なる霊魂であり
私だと実感し、自他を分離して知覚しているこれらの偽の私・私という観念ではない。
自我のあなたではないと。
心によって私だと知覚され意識されている私とは「私という観念・心の私」であって
クリシュナムルティーによって「心なく見よ」と語りかけられている私ではないのだ。
本来は熟睡中も眠ってしまうことのない高次の意識に対して
(その語りかけられている霊魂は肉体をはじめとする精妙体や私という観念に同一化して
すなわち心である脳と一体化して眠ってしまっているのであるけれども)
その可能性のある私に直接に語りかけておられるのである
それ故に
起こっていることと、その起こっていることへの反応という
心を心なく凝視しなさい
”あるがまま”を”あるがまま”に心なく見なさいと
あるがままのあなた自身を見なさいと、
観念化せず、分離なく、非難なく、逃避なく、言葉なく自我を凝視しなさいと
またその見ていることのそれを高次の自己が見ているのだとか観念化せずに
心なく、言葉なく、私なく、主客の分離なく、あるがままを、いまここですぐ「見なさい」と
「見ることの出来る目」はそこにあるのですからと
語りかけておられる。
それは訓練でありワークなのだと
だがこの「見ること」とは、「する」「為す」のではなく、ワークを通じて「見ること」は「起こる」といわれる
自我にとっては不可能なことを自我が行うことにより、
自我の死がやってきて(肉体の死ではない!蝶が脱皮するように)
新たに本来元々あった「見ること」、それが誕生するのではないか
この見ることとは自分が見るのではなくて見ることがやってくるからなのであると
この見ている中には分離はなく「愛」が在るのですと
そのように語りかけておられると私には思われるのだが・・。