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自己矛盾




ラマナ・マハリシやラーマクリシュナはいう


肉体は神のもの
肉体の行為は神が為している

肉体を自分のものだと思っている自我も神のもの
自分が行為しているという錯覚も神のもの
自分の自由意志も、自分の絶望も、自分の恐怖も
神のもの
自分の心も、自分の意識も、自分の自我も、そし
て自分自身も神のもの


苦しみも神のもの
悲しみも神のもの、
全ては神の演技・ドラマ。

それを知覚するマインドも神のもの
一体誰に悲しみや恐怖や嫉妬や自尊心を生み出せようか
一体誰に、この私や自我を生み出し維持することが出来ようか
一体誰にこの無明を生み出せようか
一体誰にこの複雑な意識を生み出せようか


心を神が使ってその心を知覚し、自ら認識しておられるのだ



肉体の行為を、自分が為していると
実感する自我も神であり
その自我を自分だと錯覚している個別的霊魂も神である。


すなわちそれらの錯覚を起こしているのも神であり
その錯覚を実感しているのも神ではないか

神以外に何もないと・・・・、

その様に賢者達は言っていると解釈できる・・・


私達はその言葉を聞いて感動する


が、しかし・・・・誰が感動しているのであろうか?
誰がそう思ったり、感動したりしているのか?
その感動は真実の直知であるのか?

そう思っているものは、思っているだけ、考えているだけ、記憶し、知っているだけであって
すなわちそれを思考し観念しているのであり
それをほんとうに理解し、実感し、それをあるがまま見ているわけではない。

私達はその真理を考えたり、信仰し、教えとしては知ってはいるが決して理解していないし、

その真理を体得しているのでも、実感として実際に見ているわけではないのだ。

真理であるのだろうと確信し、信仰し、受け入れているだけで聖賢のように実感しているのではない

聖賢は意見や観念ではなく事実の直知であるに反し私達は観念なのである
この違いが重要だ。

真理は考えたり、思ったり、記憶したり、伝達したり、信仰したりする事は出来ない。
この伝達したり、信じたり、思ったり、信仰すると言うことは思考の機能だからだ。

私達にとっての真理とは思考や概念に過ぎない、しかしそれは真理ではない。思考だからだ。
真理はある思想や考えや思考や記憶や情報などのいわゆる心の領域にはないからだ。
真理は記憶でもなく、思考でもなく、心ではないからだ。

真理とは不可分の純粋意識であるからだ。

私達とは考えたり、思ったり、信仰したりしており、その心が活動している限り、
すなわち教えや信仰がある限り
そこには真理はない。

真理は伝達可能な言葉や教えや考えではないからだ。
真理は記録可能な記憶や観念ではない。心ではない。

言葉や情報や知識ではない純粋意識であるラーマクリシュナやラマナ・マハリシの言葉を理解することなく
聖賢を理解しているつもりになって、記憶し、誤解しているのは私達である心に他ならない。


では私達というこの統覚機能は何故ここに実存しているのか?
何のためにこの「思考であり記憶である分離した心」は実存しているのか?
何のために創造されているのか?
何故、自我が創造されているのであろうか?


肉体の脳にはそれに絡み込まれているエーテル複体の脳が介在し各体の脳を繋いでいる
■肉体の脳は肉体維持のための行動と五欲と五感等を        .
                            (以下の脳は肉体の死後、シルバーコードが切断され肉体から離れる)             
■感情体の脳が感情を                            .
            
■思考体の脳が思考と記憶を                        .
■自我体である個別的霊魂という統覚機能がそれらを統合して知覚し.
■普遍的生命が意識と生命の顕れとして呼吸と心臓を働かしている .

それらが渾然一体となって私達の内面を形成し、心の一部として機能している
これらの全ての機能が使用された結果として
「自分が意志し、自分が行為し、自分が思考している」という
根本錯覚を成立せしめていると思われる。


従ってそれらの諸体が一致して「私が行為している」との錯覚を支え
統覚機能はその知覚で満たされている
にもかかわらず「行為は起こっている」と自我が言明することは
自我である自分自身に対して嘘をついていることとなる。

統覚機能である個別的霊魂はマインドと一体化し自我を自分だと
知覚しているために、現況、現段階ではそれを直知していない。
統覚機能は自らの内奥を指向しないで心に捕らわれているのだ。

「行為は起こっている」との直覚はこれら諸身体の知覚ではなく、統覚機能(個別的霊魂)の知覚でもなく
諸身体を支えている純粋意識の直覚であり、統覚機能の内奥の高次知覚であり、その言明なのである。

だがしかしこの事は純粋意識である未知なる私にとっては理解し、見ている事であっても
既知なる私にとっては単なる理論であり、思想であり、考えであることに変わらない。それは信仰である。
すなわち単なる思考であり、すなわちそれは誤解である。

大脳生理学者が仏陀と同じように「行為は起こっている」とする受動意識仮説なるものを唱え
前野隆司氏をはじめとする学者方がそのように解説しても、それは意見に過ぎず、彼らの実際の知覚ではない。
彼ら学者方の(現在のパーソナリティーである)思考や感情や記憶は相変わらず
「行為は自分が為している」と実感しており、彼らはその理論と正反対の実感をし、毎日の生活しているのである。
まさに自己矛盾の中に私同様に彼らもいるのである。
どの私がそれを言っているのかが問題なのである。

同じ言葉であっても
その違いは仏陀達はそのことを理解し、見ているのであり、覚者達は心を超えている純粋意識そのものであるに反し
大脳生理学者達はそのことを頭で知っていても理解しておらず、それは理論であって実際には見てもいない。
何故ならそれは、その誤解している当のものは、このシステムの結果であるところの「統覚機能」・心であるからである



私達自身である心が、すなわちこの個人だと錯覚している心というものが静まらない限り、
行為していると錯覚しているマインドの機能が静まらない限り
この心すなわち自己が終焉し、本来あった「目」が誕生しない限り
この真理とは考えや教えに留まり、誤解されることとなるだろう。
この真理は観念となってしまい、私達は自己矛盾の中にいることであろう。
(それが地球上の宗教の現実である)

真理とは教えや理論や信仰や知識情報ではなくて
それらの思考が静まり、
思考から離れること、
心が静まり
心から離れること、
行為が静まり
行為から離れることである
する、なる、至るから離れることである
自己が自己から離れることである。

それが未知なる私が復活することへと繋がっていくことなのではないか

終焉し、復活することが私達・心が創られた目的であろう
(道元的には身心脱落・脱落身心ということか)
(キリスト的には十字架の磔と復活と言うことか)


ではそのためにはどうあるべきか?


それには絶え間ない見返りのない(無功徳の)自己観察が求められている。
心である自己と同一化しない事が求められている。

自我である心が心を凝視するとき
私達は見ていないこと、自己を観察をしていないことに気がつく
観察者は観察されるものであることの理解はそこにはないことに気がつく
私達には目がないので正しく見ることは出来ないことに気がつく。
私達の目は分離しており、対象と主体は一つであるのに自他を分離してしまう
対象を見ているのは心であり、心は正見を妨害する。

心が心の中に入っていくとき
自我が自我の中に入っていくとき
恐怖が恐怖の中に入っていくとき
恐怖に怯えている恐怖が恐怖の中へ入っていくとき
自らが自らの中へと入っていくとき

果たして何が起こるのであろうか

観察しているマインドは、観察されているマインドであり
この主体と対象という分離がマインドであることを
恐怖を見ているのは恐怖であることを確証すること(これが気づきが誕生している証である)が発生すると言われる
気づきは言葉でも思考でも心でもないので知られることはなく、伝達もされない。質料ではないからだ。


そのためにはまず始めに自身が自身のその中へと入っていかねばならない
観察者が観察者自身の中へと入っていかねばならない

恐怖が恐怖の中へと入っていかねばならない
心が心の中へと入っていかねばならない
逃避せず、同一化せず、自身が恐怖であることを正覚しなければならない
既知とは心が機能しているのに過ぎないことを正覚しなければならない。

日常の意識は主には肉体脳と+諸体の脳+統覚機能(霊魂)+純粋意識の複合意識であり
肉体に縛られている
夢見の意識は主に諸体の脳+統覚機能(霊魂)+純粋意識の複合意識であり
肉体を超えて諸界に拡がる精妙体に縛られている
熟睡の意識は自身を向かないで分離した心に向いている統覚機能(霊魂)+純粋意識の複合意識であり
この三次元時空間を超えて拡がる個別的霊魂に縛られており
未だ全体性に達していない
個別的霊魂が眠ってしまっている

行為は起きており、私は行為には関わっていないと言明しているのはその純粋意識そのものである
脳が本来の姿に戻り、条件付けが解消して純粋意識を受けとることが起こったのである。
それは個別的霊魂の閉塞が解かれて純粋意識との結合が復活したのだ


その純粋意識から見れば行為は起こっており、マインドも起こっており、私・自己も起こっている
その行為とマインドが私という観念であり、個別的自己を生みだしていると言うこと
にもかかわらず、個別的霊魂は自分が行為し、自分が存在し、自分が考えていると
心と一体化してしまっている

しかしこの行為は起きているとの実感は個別的霊魂には殆どが誕生していない
肉体や感情体や思考体及び自我体(統覚機能・個別的霊魂)にはその様に観念することは出来ても
その観念とは理解ではない。

すなわちそれは誤解であり、心にはそれを理解することは出来ない
理解は心に対して誕生すること、すなわち起こる事だと言われる

だがしかしその起こる事という理解が生まれるためには
すなわち理解が誕生するためには
それらの心であるところの自己が完全に沈黙しなければならない。
肉体、感情体、思考体、自我体が完全に静まらなくてはならない、心が沈黙する必要が有る


その完全なる静寂に中に、それらの諸体を支えていた「未知なる私」が
自己の内側から非対象として顕現することだろうと言われる

そしてその目が
その自分が為していると錯覚している私のことを終焉させ
起こっている行為と思考と「私である心」の構造のことを理解し見ると言うことが起こるであろう

・・・と