人類共通の反応
すべての人間の思考とは
”私”が思考している・・と
”私”の思考のように見られるし、そのように思える。
”私”が思考しているかのように実感されるが、
確かにその実感とは私の実感であるが、その私とは条件付けられている脳の実感であり
脳を条件付けている「私という観念」自身の実感であって、
この私とは「私という観念」のことである。
確かに「思考」は「”私”の思考」のように実感されるが
この「私」も、「私が考えている思考」も、ともに一定の脳の条件づけに従って
生じている結果、すなわち脳の結果としての意識のことであり、
正確にいうと「私」も、「私の思考」も、その「思考の内容」も、
共に「脳の条件づけ」によって発生している
条件反応だということである。
人類の意識とは脳の条件反応なのだ。
それは全く自由ではない。
脳の条件付けとは「私という観念」に他ならない
それゆえに全ての人類は同じようにお互いに競争し、一番をめざし、自分の安定と安心を
もとめ、利己心に溢れ、憎み、プライドを持ち、嫉妬し、恐れ、欲望し、記憶する。
それら人類の意識、知覚、思考とは脳によって限定されている
時間も空間も自他の分離知覚も脳によって生じたものであって脳の結果でしかない
その知覚も内面も「或る非常に限定された意識状態」であり、
その意識である「私は」「私が」という主体感も所有感も脳の条件づけによって
生じている結果に過ぎないのである。
実際は私が思考しているのではなくて
脳の条件付けから「マインド」即ち「私という観念」が生じ
その私という観念から第二次思考が起こっており、その記憶が私と意識されている。
即ち脳の結果生じているその思考の記憶自身が”私”と意識していて
「自分は意識している」、「自分は思考している」と実感しているに過ぎない。所謂自我である。
この私達人類の意識・思考とは脳を条件づけている「私という観念」から起こっている
条件反応の結果なのではないか。
勿論、
私の思考の中身とは他人とは異なっているし、他の人とは脳の構造や規格が同じで
あっても、自分独自のオリジナリティーで、自分という確たる存在が感じられて、
その自分が独自で思考しているように思えている。
各個人の私の脳がそれぞれ独自の思考を生み出している
と・・・そう思えるし、そう実感されている
だが、それこそが条件づけられている脳が生み出している嘘なのではないか。
その実感とは「私という観念」の実感なのである。
条件付けられている脳が生み出した「私という観念」が「分離している私」と実感しているのである。
すべての人類の脳は条件付けられているので自分は特別で、この思考は自分だけの思考だと
すべての人類は全く同じそのように思っている。
思考とは脳の機械的な条件反応の結果で、全人類が同様に思考しているというのに・・
脳は条件付けられているので、脳はこの脳が物質のみで、三次元的で、且つ個人的で
あり、自分と他人とは分離していて単体だけで機能していると思考している。
脳は
「私という観念」に覆われ、浸透されているため実際はクラウドの様にネットワークで
機能しているというのにその脳の条件づけである私という観念が、自分とは単体で
独自で個別で個人的だと思い込んでいるのだ。
脳は物質脳だけではなくて諸体の脳によって複合的に構成されている
時空間とは脳によって創作されているのに、それゆえ脳としては三次元を超えて
時空間に拡がっているのに、脳に浸透した私という観念はこの肉体が自分だと
思い込んでいて、しかも自分はこの肉体にだけ限定されていると思い込んでいるため
自分とは個人であって他人とは全く別の存在だと、思い込み、肉体と自己同一化しているので
脳自体の素晴らしいネットワークには全く思いもよらないでいるのである。
脳は(心は)本来は無限の可能性を秘め、純粋意識と同調できるのだ
だが現在の人類の脳は限定され深く条件付けられている
・・・それ故に人類は誰でも「自分が思考している」様に感じている・・
実際には脳内で人類共通の私という観念が思考しているのに
(その思考がさらに記憶となり思考者、行為者、即ち個人、自我を生み出しているというのに・・・)
それゆえ
その思考が生み出した記憶である個人、自我は自分が欲望し、自分が選択し、
自分の意志で、自分の考えで、自分が生きているように思っているだけなのだというのに・・
この自分・自我自身が私という観念であり、根源が私という観念を使って行為され
内面も外面もかくの如くあらしめ、然らしめているというのに
私・自分が思考し、選択し、自分の自由意志で行為し、出来事を起こしている
のだと錯覚している。
だがしかし実際の真実は、
そう思い込んでいる私も、
行為も
起こっていることであり
「自分は行為している」との実感も、
その「行為している私」も「行為」も
脳が生み出している。そして脳は根源が使用している。
故に「行為している私」という実感は虚像なのだ。
実際に行為しているのは脳なのだ、否根源なのだ
脳の条件付けに因って生み出された私がではない。
そしてその錯覚は記憶となり、そうして今度は
脳に起こっている「心」に対しても、思考の記憶が非難し、評価し始め、
抑圧したり、逃避したり、観察したりしはじめる。
そして、その「思考とはさらに上位の別の自分」
が思考を観察しているようにすら感じ始める。
自分とは思考を観察している上位の自分であり、この自分が「自己を観察」しているのだと
思い込み、良くなろう、真我実現したりしようとして方法を模索し実践したりする。
だが、「なろう」「あろう」としているのは、その条件づけられている思考自体ではないのか
条件づけられている思考が思考者ではないのか。
言い方を変えれば、「思考」も「思考者」も
「行為」も、「行為していると思う行為者」も脳が生み出している事柄なのではないか
自分が思考に気がつく、若しくは自分が思考を観察しているのではなくて
起こっている思考が自身である「思考を観察している自分」を生み出しているのである。
自分が思考に気がついているのではなくて
その「思考に気がついている自分」とは気がつかれている思考そのものである
という事なのだ。
脳の条件づけから生じている私という記憶を使ってマーヤは
思考者と思考される対象という分離を生じさせているのではないか。
マーヤが苦しみを生み、苦しんでおられるのもマーヤご自身(自我という仮面)である
このこれを書いている私自身も、私の意識も、この思考も、脳の条件付けの結果であり
思考に過ぎず即ち分離しており、外部と内部に分離しているようにしか見
ることができないでいる。
正しく見ることができないでいる記憶。
それが思考が生み出している私個人だ。
思考を思考から離れて観察している私こそが、思考が生み出している
「思考のトリックの結果である私」である。それがこの私である。
従って思考の観察者とは観察されている思考自身であると思われるのである。
恐怖に怯えて恐怖から逃げようとしている恐怖の観察者とは恐怖・私であり、
私とは恐怖が生み出している恐怖自身である、
私が恐れているのではなくて、恐怖がこの私なのではないか、恐怖が自らを分離させているのだ
恐怖・私こそ源泉(マーヤ)がかぶっている仮面ではないか。
源泉が分離を生み出し、見る者と見られるものの区別を生じさせていたのではないか?
見る者も見られるものも源泉(マーヤ)ご自身なのではないか?
その私・恐怖がそれを実感し、その理解が訪れるとき
恐怖は愛に変貌すると教えられている・・
その源泉に至るとき
思考は気づきに変貌するといわれる
悲しみは慈悲に変貌すると言われる
欲望は充足に変わると教えられている
ここで重要なのは
思考に気がついている自分とは
(即ち思考の観察者の事であるが)
気がつかれている思考と本来は同一なのに
それをあたかも思考とは独立した自分が思考を観察しているような
(私・個人が思考を観察しているような)錯覚をみずからが抱き、
思考から独立した自分が思考を観察しているのだと錯覚している。
しかしその様に錯覚しているのは私という観念である思考なのであるということだ。
この観察者と観察されるものという二重構造を生み出しているのが思考自体であり、
その私という観念自体である。
その私という観念から派生している個人個人
(のように思われるが実は全人類は同一の私という観念である)
の思考や想念とは、実際のそれは、私が思考していると思いこんでいるだけであり
その思い込みは脳の条件付けであり、それは即ち「私という観念」の働きである。
実際は個人とはなく、個人的な思考というものなど何一つないのではないか
人類の意識とは全員が同じく、同じように恐れと悲しみと苦しみにプライドに
条件づけられている脳が生み出している虚像なのである。
それは私という観念という脳の条件付けが引き起こしている思考の結果であり
その思考が自らを分断分離させ、主体と対象という分離を生み出し
思考が自らを観察し、その思考に気がついている思考者を生み出しているのである。
従って
脳の条件付けが解かれないまま
いくら神秘体験を重ねていても
そこには常に神を対象として見ている体験者・経験者がおり
神と「対話する私」という二重、主客分離の二元状態が残っているのである。
実際には神しかいないのに神と対話している私が実感されている
その二元分離こそ脳が生み出した虚偽ではないか。
その神と対話している私も、神という対象も脳の条件付けの結果であるものに他ならない。
至高の未知なる領域には分離は存在せず、
従って観察者と観察されるもの、
見る者と見られるもの、
主体と客体の分離(マーヤ)はあり得ないからである。
それ故に、それらの神秘体験のその体験者は
決して体験者は体験であるとは云わないのである。私は神を見たというのである
それはマインドである虚偽であり、その神とはマインドの創造物である。
体験とは起こっている事であり、マインドの領域の内部であり
その体験者という対象を見ている主体とは、その体験自体が生み出したのである
と云う真実を決して知ることはないのである。
虚偽の中でのみ、それらの体験は体験される。
いくら至高の神秘体験であっても、そこには体験している私と体験が分離しており
それはあきらかにこの脳の条件付け、
私という観念=心の内部の事柄に他ならないのである。
それは決して未知なる至高の非分離の真実ではない。
したがってそれは決して観察者は観察者であるという
不二一元の非分離の意識を理解することはない。
従ってその神との対話をしている状態や神との遭遇の状態とはマインドが生み
出している神々であって
真実の未知なるものではないといえよう。