脳はネットワークしている
脳は(以下での脳とは頭脳を機能させている諸体の脳も含んでいる)ネットワークしている。クラウドの様に・・と推測される。
全人類の脳は(すべての人種は)どこにいても同じ構造、全く同じ同一の機能・規格、そして全く同じように条件付けられている。
(脳は私達である個人が創り維持しているのではなくて、根源である「大自然」が創り維持している)
それ故に脳は「私は個人で単体であり、独立している」と思い込む様になってしまっている。私とあなたの心は別々だと思い込んでいる。
同じ規格と機能で生じた全く同じ心が、決まって自分は他人とは全く異なる自己存在だと思い込んでいる。
PCに譬えれば、すべてのPCはクラウドで結ばれているので、記憶や情報はその単体を通じて全体が共有している。
(サバーというアカシックレコードは別次元に存在していると思われる)
PCの場合はそうであるのにどうして人類はそうでないのかと言えば、それは脳が条件付けられているので
単体のPC(脳の事)が機能不全に陥って、クラウドに繋がっているにもかかわらず繋がっていないような状態になっているのだ。
このクラウドシステムの基盤に真の私があるとおもわれるので、(これは三次元的思考では推測するのが非常に難しい)
現在の人類の私意識とは条件付け(私という観念)が起こしている意識であろう・・・その無明自身の意識なのである
この脳の条件付けが少しでも解除されたのなら、それぞれの個体の脳は、今までの過去のすべての人類の記憶にアクセスする
ことだろう・・・ということは
私達とはマインド(脳)の上からでも全く単体ではなくて、全体の一部であるということ、いやいや全体自身ではないのか。
実際は私達の心は(脳は)単体ではなくて全体の一細胞として結合しているのである。一つの大きなマインドの一部が
条件付けに因って機能不全に陥り自分は全体である事を知覚できず、その逆である仮想の分離した単体として知覚しているのである。
では翻って、その私という自己を観察するとはどういうことなのであろうか?
その条件付けが条件付けを見る事、それが自己観察に他ならないとおもわれる
虚偽である「私という分離」が、虚偽である「私自身・無明」のことを、自分そのものとして正視することではないだろうか
「私という観念」が「私という観念」を分離せず見る・・その対象である自己のことを「見ている私自身」として正視する事である
シャンカラ的に言えば
「私ではない自己意識が、私ではない自己意識自身を分離せず見る」という事なのではないだろうか
簡潔に表現すれば自己観察とは
「私は知覚している私だ」といっている「私という観念のこの私」のことを
非難なく、同一化なく、逃避なく
「私だと知覚している”私という観念”」が分離なく見る事であると言えよう。
「自我を知覚している自我」とは「知覚されているその同じ自我」である、を分離せずに見るのである、
自我が主体と客体の分離そのものであるからだ
それを正しく見るのが自己観察なのではないだろうか
問題や葛藤を私が見ているのではなくて、問題や葛藤が私なのである
そして問題や葛藤が私そのものであるとの直接の覺知があるとき
またその覺知が知識や観念ではなく実際であるとき
問題や葛藤は果たしてあるのだろうか?
と教えられている