戻る














雲がはれるとき青空は姿を現す





爪を伸ばさせ、瞼を開閉し、視点を合わさせ、舌を動かして発音を成立させ
心臓を動かし、随意筋と不随意筋を自在に操り、息をしているのは
この自我の私ではなくて根源であるように

行為とは誰がしているのであろうか?
それは明白なのではないか

身体を創られた神以外に誰が行為をすることが出来ようか

自分が行為していると実感している「私」とは、諸体の脳により発生している私だ
その私はこの生きてそして行為している絶対なる純粋精神によって発生している
その私という観念は「私が、私のと言いつづける私という実感」に他ならない

その実感しているもの「私・自我」は他の二つの脳によって支えられているのではないか
この「私・自我」とは大脳新皮質の機能の条件付けに因る状態だとも言えようか

それ故にこの超精密、超繊細で超高級な肉体は勿論、私のものではない。
肉体とその行為とは肉体と頭脳を創り維持し行為している創造主にしかできない
ものであるといえる。

それでは心とは誰のものであるのか?
私の心とは誰でもよく言うが、心とは私の心なのであろうか、
それとも逆に、私こそが心(諸体の脳)が生み出している結果なのか
この私・自我とは脳が生み出している意識なのだ
競争心と自尊心と利己心に満ちた私という観念なのだ


この意識とは私の意識なのか、
それとも脳に起こっている意識が
「私と言う自己意識」なのかということである。

その条件付けられている脳の意識が私の脳などと言っているのだ。・・この私こそ脳の結果でしかないのに
(この場合の私とはラマナ・マハリシなどのいう真の私のことではなく私という観念のことであるが)

即ち、自己意識とは脳が生み出している結果としての意識なのであり、
私の心とか私の身体とか私の頭脳と思っているのは幻影であり間違っている
事実は私も私のものも何もないのだ、身体も心も根源によって起こっているのだから
ただ、この私という実感は万人にとっての当たり前の実感であるので覆すのは難しい


正しくは
思考や感情や観念及びその主体である私とは
脳の働きによって生み出されている結果である
「自己意識・記憶」に過ぎず
脳を動かし、あらしめているものの真の私ではないということである。
真の私が投影している私だということだろう

それゆえに私・自己意識とは・・それは脳の機能の結果であり
私が考えているのではなくて、条件付けられている脳に考えが起こっているのだ
にもかかわらず
行為と同じく行為の後に自我による行為の意志が起こるように
思考が起こった後に自分が思考したという実感が起こり、その思考への評価が始まる

ゆえに、その思考への反応・考えとは、脳に記憶されている条件付けられている「思考の記憶」に従って
数学的にキチンと引き起こされている条件反応なのではないか
恐怖、不安、嫉妬、競争心、利己心などを中核とした自己意識の事だ


私達の内面とは超精密なる機械で有り、脳によって私という錯覚が生み出されている


脳が心で有り、心は脳にある。

自我・私はその脳の条件付けに因って発生している
だが「気づき」は私・思考の範疇にはなく、従って心や脳に束縛されていない
それは心や脳を生みだし機能させている純粋意識だからだ

脳に起こっている条件付けられた思考が記憶となって
その記憶に従って記憶がさらに機械的に決められたように二次的に機能してい
るとも言える・・それがいわゆる私の考え、私の反応、私のエレメンタルというものである

正確に言えば意識とは(心とは)脳を作られた純粋精神が機能させているといえる



真実はこの自我・私とは記憶の事であり、記憶の反応の事であり、従って条件付けられて
いるようにしか思考しないのだ、その中身とは恐怖であり、安心安定したいという欲望だ

二次的思考とはこの条件付けられている記憶の反応のことでもあり
一次的な心とは根源からやってきているものである


私そのものが分離の意識の記憶であり、
条件付けの結果そのものである
私とは思考の記憶であり
その記憶の反応でもある
即ち私・自我とは脳内の思考システムの結果が生み出している意識のことである



起こっている行為が行為者を生じさせているように
脳に起こっている思考(即ち条件付けの結果である記憶の反応)が私・自我意識を発生させている

行為が「自分が行為していると錯覚する行為者」を生んでいるように
思考は「自分が思考していると錯覚する思考者」を生んでいるのだ

その「思考者」「行為者」という記憶が働いており
それが、私達である
この自我・私であると
更にその記憶がやってきている思考や感情に対して肯定的又は否定的に
条件付けられているように反応し、
第二次的にエレメンタルを生み出し続けているのだ
私達自我・記憶は肉体を脱ぎ捨てても他の精妙体として同じ様に第二次エレメンタルを投射し続ける


この記憶・私とは「やってきて起こっている思考」の記憶(脳内のプロセス)のことであり
記憶・・・それが私の実体である

心とは脳であり
脳の一部が条件付けられているのである
即ち心は私という観念によって条件付けられている

脳は心であり、
その脳の変革とは、

心自身がそれ自身のことを非難なく判断なく見守るとき

そこに本来あった青空が顕れてくる・・
それがこの条件付けの除去・破壊に他ならないといわれる

脳細胞の変革とは思考が思考を味わい尽くすときに発生する・・といわれている

これが奇跡でなくて何であろうか!!

そしてそのとき虚偽は除去され、
私はいなかったこと
無我という、もともと本来はじめからあった状態が現れるといわれる

では例えば嫉妬心の場合はどうだろうか?
嫉妬心を見ている私こそ嫉妬心の一部だ
条件付けられた心は、自らこそ嫉妬心であるのに嫉妬心を自分の対象としてしまう

知覚している私とは、知覚されている相手ではないのか、だから知覚されるのだ
立ち向かう他人の心とは私の心を映しているに過ぎないのではないか


この嫉妬心を観察し、嫉妬心を取り除こうとしている私こそが嫉妬心なのである
嫉妬という思考が自らを分離して嫉妬の観察者を生み出している
嫉妬をみている私はいないのに嫉妬をみている私を実感するのはその嫉妬自身なのだ


欲望や衝動を見てそれに怯えているものこそその欲望や衝動だ
それこそが脳の条件付けの結果である二元・分離の動きそのものなのだ
その欲望と衝動を見てなんとかしようとして非難し判断し逃避しようとしている私こそが、その欲望と衝動に他ならない

この
怒りや恐怖や自尊心を見ているものこそが、その怒りであり恐怖であり自尊心なのだ
にもかかわらず
脳の条件付けに因ってイライラを観察しているのはイライラ自身であるのにもかかわらず
そのイライラを対象化して
それを解消しようと色々と模索し努力する
それがイライラ自身であると言うのに

脳の条件付けに因って二元分離という対象化が生じてしまっているのである

ということを教えられている・・・







私という観念の私とは思考の記憶のことであり、記憶の束のことであり
未知なる本来の普遍の「気づき」意識ではない

記憶が脳の条件付けに従って発生しているのであるからして、勿論、その記憶たる自我・私とは
個人的なのではなくて、脳は全人類が同一であるように全人類が同一の同じ「自己・自我意識」である
脳の機能が同じであるから世界中のすべての人が同じように決まって条件付けられている

この心・マインドが脳に於いて自らを分離してしまい、その観察者と対象になっているのだ

私という観念である自己を学べば自己は消失すると教えられている事を
私達は自ら自身で実験する必要が有る

心であり思考である私達・私という観念が自らである心と意識の中身を味わい尽くす事である

この恐怖というあるがままの中にこそ真理と解放があるのだと云われている

ならば私達・私という観念はこれを実験するしかない
ダイヤモンドはこの泥の中にあるのだ

しかし味わい尽くすとは観念的な作業ではなくて実際に本当に対象と主体に分離せずに味わうという事である

このあるがままの恐怖を非難することなく逃避なくそれを主客に分離せず味わいつくする事だと
いわれている

それが脳の条件付けが打ち破られるワークに他ならないと

それが雲が晴れるとき本来の青空が姿を現すことだ、と