行為の実感があるかぎり自我だ
「自我がいる限りは、自分が行為していると実感しています
自分が行為していると実感しているのは自我です
自我がないとき行為しているという実感が消失しています」
とアドヴァイタの聖賢は言われます
これを書いている私も、読んでいるあなたも
書く事、読む事に於いて自分が書いている、または自分が読んでいると実感している事でしょう。
ですから、書いている私、読んでいるあなたは自我である。その実感をしているのは自我であるということになります。
いくら私は自我を観照しているといったところでその観照しているつもりの私とは自我であるということです。
聖典やラーマクリシュナやラマナ・マハリシの本を読んで、真理を記憶してこの教えを分かったつもりになっていても
自分が記憶している、自分が読んでいるという行為の実感をしている限りは、それは単なる記憶であって
それを記憶しているのは「自分は行為している」と実感している自我であるということになります。いくらその真理を記憶しても
日常の家庭や仕事場で自分が行為していると実感している限りは
その私とは自我であって、自我を観照している「気づき」ではないこと示しているということです。
真理ではないものが自分は真理を知っていると嘘をついているのです。嘘をついているのは私である自我です。
真理は知ることも、記憶の範疇にもないのです、真理は自我ではないからです。
真理を記憶し信じているものは真理ではない自我であり、記憶する自我は真理では決してありません
もし真理であるなら自己の実感はなく、従って自分が行為しているという実感はあり得ないからです。
「私は行為していない」といえるのは、本当にそのことを実感している「気づき」であって自我ではないので
自我がいくら「私は行為していないのだ!すべては起こっているんだ!」などと叫んでも、それは嘘を言っている事となります。
なぜなら「全ての行為は起こっている」とそれを叫んでいるご本人が「自分は行為している事」を一番実感し、
従って「他人はそれぞれ行為している」・・・と見えているわけですから
もし、その「自分は行為していない、行為は起こっている」が本当にその人にとって真実であるなら
他人も行為していない、そして誰も行為していない事がハッキリと見えているでしょう、
自我はいないし、「自我はいないという自我の自意識」もない事でしょう
もしその状態が本物であるならば意識の座の中で脳や諸体の脳の意識ではない、
脳を観照している「気づき」の意識が脳の意識と結ばれたということでしょう
そのときは脳に変革が起こり脳を観照している「気づき」と脳が結ばれた状態が生まれていると思われます。
心に革命が生じたのです。