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何一つ私のものは無い



何一つ私のものは無い、私のものなどはあり得ないからだ、私そのものさえも私のものではあり得ないからだ。

心の座である脳は私のものではない、脳があるから意識も有り、私もあるからだ

自尊心、プライド、エゴイズム、増上慢、利己心などの自我も、それに対する記憶からの反応も、私のものではない

肉体、頭脳、思考、知性、記憶、意識、行為、才能、出来事、欲望、知覚、感情など、どれ一つとっても私のものではない。

内部と外部のことがら、それらすべては起こっているのではないか、

内部と外部を知覚する(条件付けられている脳)による「知覚作用」そのものが起こっていることがらであると思われる

それらすべては人類の脳を創っている未知なる根源から起こっているのではないか


それどころではない

この現在意識であるこの私そのものがわたしのものではない、と思われるのだ。

この私には、この自分自身をまったく生み出せないからである。

この私の思考・感情・欲望・意志・記憶は条件付けられているパターンに従って起きているからだ

この私、自我とは生じているもの、起こっているものであり、根源が使用しているものだと思われる。


私とは私という観念のことであり、その実感とは実際にはその条件付けである私という観念が生み出している実感であり、

本当は意識とは分離している私ではなくて全体性であるのに個別性を実感してしまうのである

私とは「虚偽」それ自身であり、私・自己とは錯覚それ自体なのである。


他と分離している自己意識とは虚偽の意識に他ならないと思われる。

虚偽こそ「私という観念」の意識の本質だ。それが他人とは異なっているという自己意識だ。

この他人と分離している私・自己という実感こそが、「生じている神のマーヤ」であるものに他ならない。


私自身、自己意識、潜在意識、現在意識といわれている「主体意識そのもの」が自分のものではない。

この条件付けの結果である私という自我意識には自我意識を生み出す事はできないからだ。


私・自我とは私・自我のものではない。マーヤのものだ。私とはマーヤなのだ。


知覚主体として、または観察者、行為者として最終的に残るものとして実感される「この主体」とは私のものではない。

主体感覚・主体の実体実感は「私という観念」が起こしている「分離している意識独特の実感」なのであろう。

現在の「意識している私」とは、この分離している「私という観念の意識」なのだ


私が熟睡から目が覚めたのではなくて、「熟睡から目が覚める事」が起こったので私・自己意識が継続し

その「私という観念」の記憶である継続した意識が「私は目を醒めた」というのである。

「目が覚めた事が起きた」のが最初であり、目を醒めた私とは

その目が覚めた後に起きている「記憶の結果」であるに過ぎない。

目を覚ました私・個人とは脳によってコントロールされている結果の意識なのである


私が夢を見ているのではなくて、「夢の物語」も、「その夢を見ている事」も「夢を見ている私」も起きているのである。

この夢にせよ、夢から覚めた自己意識にせよ、その中核とは私・記憶の意識であり、

この私意識とは、起こっている意識、生じている意識である。

継続している記憶システムから生まれている私とは、記憶システムの結果(私意識)に過ぎず

そのシステムを生み出し維持しているものの意識ではない。

私意識とは記憶システムを生み出し、維持し、運営しているもののものだ。

それは根源のものである。


諸体の脳、脳の機能と思われる統覚機能が生み出しているのがこの私という、自他が分離している主体であり

その自他分離の実体感覚であり、自己意識であり、それは脳の条件付け・・・

条件付けである「私という観念」そのものであり、脳の結果でもある。


条件付けられている脳が生み出しているのが他と分離している自己意識であり

地球人類の全員の自己感覚、自己意識は「私という観念」の分離意識である。同一規格の脳であるからだ。

その生み出されている自己意識それ自身が錯覚に他ならず、自他は分離していないにもかかわらず分離と捉え

行為は為していないのに「自分が為している」と思い込むのである。

脳の条件付けがその様に錯覚を生みだし続けている。それがこの自己である。

そしてありもしない自己をしっかり実在しているような実体感覚を自らが抱くのである。

その脳の条件付けの結果である意識こそが私達である既知なる意識の正体なのではないのか。



この現在意識とは、条件付けられている脳の結果として、脳から生じている意識のことなのであるといえようか。


私とは脳の条件付けによって生み出されている虚偽の自己意識であり、その記憶の反応であるともいえる。

ではその条件付けである「私という観念」はどこから生じているのか?

それは未知なる源泉しかない。知覚されるものは源泉ではない。知られるものは源泉ではない。


源泉若しくは根源、若しくは大自然、又は創造主が、脳と「私という観念」を使って内部世界も外部世界も表現され

ているのではないかと推測される。

誕生と成長と発展、老化と衰退そして破壊と消滅である。源泉が生滅というサイクルを持続されている。




肉体も精妙体もすべての身体もわたしのものではなくて完璧なる根源のものである。

脳も、諸体の脳も、それが生み出す意識も知覚も感情も思考も、記憶もわたしのものではなく完全なる根源のものである。

私意識そのものこそが私が生み出した意識なのではなくて、私という錯覚を生み出した根源のものである。


この脳と身体に浸透している自我である「私という観念」も、その意識も私のものではなくて根源のものである。

この自己意識・自我・個人、「私の」「私は」は、私のものではなくて神聖なる根源のマーヤに他ならないと思われる。

意志、記憶、エレメンタル、思考、感情、情動、衝動、希望、絶望、欲望などは私のものではなくて根源が脳を使い

私という観念を使って生み出している根源の表現媒体なのであろう。


行為とは、「行為の為し手・自我」と共に根源によって生まれ根源によって行為されており、私のものではない。

行為を為すものは根源であり他には誰もいない。

カルマとは行為を為しているものに帰属するのではないだろうか

ならば行為を為しているものとは根源であり、行為を為していると実感している自我ではない。

自我である行為の為し手とは行為の結果であるからだ。



従って

私自我は何もする事はない。私自我は何もしていない。私自我は何もしていなかった。

私自我とは起こっている行為の結果であり、同じく起きている思考の結果であるからだ

行為が行為者を生み、思考が思考者を生んでいると言われる

行為も思考も起きている。内部も外部もその分離も、区別も起こっている。

私も起こっている。

分離しているこの私とは根源のマーヤなのだ。


この私とは本当はいないのだ。


私、その私という錯覚は「私という観念」によって生み出されており

神聖なる錯覚(マーヤ)なのだ

その私という観念は根源が使用されているからである・・と推測される。


以上はあくまで私の推理推論であり、悟りではありません

俗義の事柄に関心がある場合は肯定的・積極的な教えが向いていることだろうし

日常の家庭生活や社会ではこの考えはあまりにも現実離れしていると感じられることでしょう

しかし、自分が宇宙の中心ではなく、さらに行為や思考の主体ではなくて起きている現象の結果である

という考えは決して真の私(神)を否定するものではないことを断っておきます