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「心によって心を見れば、真我はそれ自体で輝き出す」



「心によって心を見れば、真我はそれ自体で輝き出す」
(ウパニシャッドより)


何と素晴らしいメッセージであろうか!



これはラマナ・マハリシの「私という観念の根源に至ったときそれは真我である」と同じではないか

それはまたクリシュナムルティーのいう”「恐怖を見ているのは恐怖である」を覚知しているのは気づきである”と同じではないか


では心とは何であろうか?見るとはどういうことなのか?

本当は心には私の心や、あなたの心といった区別はないのではないか。

人類に全く同一の心がこの私であって、この心である私は「私という観念」によって混濁しているのではないか?

私が心を生み出したのでもなく、あなたが心を生み出したのでもない。すべての人類は同じ一つの心なのではないか。

その同一の心が私とあなたの区別を生み出し、「分離された私」という個人、わたしとあなたの分離を実感している。

それは個別の肉体に入ったからであり、その個別の肉体を自分自身と思っている私という観念を

自分自身と見誤ったのであるからではないか?


その私という観念の本質とは「なること」「至ること」「根源的恐怖」「根源的苦悩」「不安」「時間」「空間」『競争心」「プライド」などであろうか

だが、私が私という観念を生み出したのでもなく、あなたが私という観念を生み出したのでもない。

人類に同一の私という観念はそこにあるものだ。個人とはその私という観念の反応なのではないか?

私やあなたというこの分離感、自他の区別意識こそが、私という観念そのものの意識の中身なのであり

そこから、それは(自らから)逃避しよう、又は(逃げるために)同一化しようとして判断し、非難し、記憶しはじめる

そして自己観察と称して全く同じであるのに自らを高次の自己と低次の自己に分割して生き残ろうとする


この私という観念が各体の脳を通じて生み出されているのだ。

若しくは各体の脳はそれによって覆われているのだ。


すべての人類は、人類同一の私という観念によって覆われている。

すべての人類は一つであるのに肉体が個体であるから自分は個別だと思い込んだのである。

故に、私とあなたの区別、私とあなたの分離の実感が、即ち根源的恐怖と苦悩がここにこのように万人にある。

覚醒している意識も、夢見ている意識も、その「私という観念の意識」のことであり

脳に浸透しているその私という観念が熟睡する(心が眠る)ことで、脳は安定して機能でき、身体も回復できていると思われる。



その私という観念こそ、肉体を私だと思っている私、自分が思考していると思っている思考者、自分が知覚していると思っている知覚者、

自分が見ていると思っている観察者、自分が行為していると思っている行為者、自分が経験していると思っている経験者

自分と他者の区別をしているこの個人のことであろう。即ち恐怖であり、全人類が同一の心のこと。


思考は純粋精神から起こっているのに、自分が思考していると実感しているのはその私という観念である心である。

行為は純粋精神から起こっているのに、自分が行為していると実感しているのは、その私という観念である心である。

自分個人とは純粋精神の投影であるのに、私が実在していると実感しているのは、その脳に浸透した私という観念である。

そしてその観念は記憶となり、記憶が今度は条件反応し

多くの想念形態が生み出され、そして対象知覚されているこのかくの如き現象世界を形成している。


その私という観念は自身が肉体に浸透したため、自分を肉体と同一視していても、肉体の死後も生き続ける。

自身である記憶は物質界と同じ状況を死後も想念形態で作り出してしまう・・これが死後の冥界であろうか

そして各有機体の区別を、自分と他人という「区別の意識」にすり替え、その区別があたかも真実であるかのように実感がされている。

わたしはわたし、あなたはあなたと・・・。


その私という観念とは心に浸透し、心の一部となっているのではないか。

だがしかし、それらを総称しての「心」さえもが各体の脳が純粋精神によって機能しているように、

その「心」も「記憶」も「脳」も同じく純粋精神によって機能しているのではないか

生命が呼吸や心臓の循環、脳の機能をこのようにあらしめられているように、

生命そのものである純粋精神が、心である私という観念をも使役し

この仮象世界を支えておられるのではないか?


私やあなたが生きているのではなくて生命が生きておられるのであり、私やあなたとは畢竟、この生命のことなのではないか。

私やあなたが思考しているのではなくて、思考が脳を経由してやってきているのであり、

脳を経由した思考の記憶が私やあなたであり、私とはその思考とその思考の条件反応なのではあるまいか?

その脳と脳の条件反応を私という観念は自分自身だと思っている・・が、私という観念自身はその思考の観察者なのである。



高次の自己が低次の自己を見ているのではない、それらは両者ともに私という観念でしかない。

自己を高次の自己と低次の自己に分けて知覚している者こそが私という観念である自我に他ならないといわれている。

従って、心を見ているものとは心であり、その心を見ている私とは心であるということの真正なる理解が起こったとき

(クリシュナムルティーは恐怖を観察している者は恐怖であるといわれている)

その理解が起こったとき”個人や分離した私やあなたは全く存在していなかった事”の気づきが誕生する・・と

しかしこの事は単なる観念や知的に理解することではなくて(それらは誤解である)、本当に全身での理解が誕生したとき

非個人的な「気づき」が誕生する。それが真我であると言うことなのであろうか。

それが「心によって心を見れば、真我はそれ自体で輝き出す」
(ウパニシャッドより)
ということではないか




その「理解・気づき」が誕生するためには

観察者は観察される者であるということを、自他の分離を見ているのものはその分離そのものであることを

即ち心が心それ自体を絶えず非難なく、分離なく見つづけることが「理解」へのワークではないか。

たとえいかように各人の段階や深度が異なっていようと「あるがままをあるがままに見つづける」ことが肝要なのではないか。


なぜそれが可能なのかは

たとえ0.1%以下という僅かであるとは云え、一条の真我からの光が、この混濁している現在意識の中に既に在るからに他ならない。

それがあるからこそクリシュナムルティーもラマナ・マハリシも「在りなさい」「見なさい」と言い続けておられるのだ。

”あなたは肉体でもなく、思考でもなく、心でもなく、個人でもなく、「在る」のだ”と言われ続けているのはそれに対してなのである


現在意識とは「本来の心」「私という観念・自我」「各諸体の思考や感情」「カルマからの衝動」「記憶からの条件反応」「サムスカーラ」「ワサナ」

そして極々僅かながらの真我からの「気づき」などで構成されていると思われる。現在意識は複合且つ重層なのだ。

この現実があるからこそ、多くの覚者は一見すると不可能の事を言い続けているのである。



「心なく、思考なく、判断なく、あるがままをあるがままに凝視しなさい」と

それゆえに、このあたかも出来ない事に見えるこの「絶えざる気づき・観照」のワークが必要不可欠なのである

この一見不可能なことに挑戦していくガッツこそ大切ではないか

・・・と思索している