私の信じている道
私が信じていることとは以下の通りである
・・・・
神(未知であり対象を持たない純粋精神)が行為している
そして
行為が「行為している私」即ち行為者を生みだしている
がしかし
真の行為者とは神・純粋精神にほかならない
神が意識し
意識が「意識している私」意識者を産みだしている
がしかし
真に意識している意識者とは「意識していると思っている私」を媒体としている純粋意識である
意識は神が使っているのである
神が生命として生きているのであって私が生きているのではない
生命が「自分が生きていると信じている私」を生み出しているのだ
がしかし
真に生きているものとは「生きている自分」ではなくて生命である未知である神だ、純粋意識だ。
神がマインド・脳を使って思考を起こし
その思考が思考している人
即ち思考者を生み出している
が
真の思考者は未知なる純粋意識・神である
神が記憶を使って記憶の反応を起こしておられる
思考とは記憶からも来ており
記憶とは心の記憶であり、その記憶は神からであり
心も記憶も神の道具である・・といえようか
神(純粋精神)が個別的霊魂を使って、鏡やスクリーンをあらしめ
その個別的霊魂という鏡にマインドを投影して人生と出来事
「転生し継続して生きている私」、体験者、経験者、知覚者、行為者、観察者を生み出している
転生し続けている自我を生み出している
即ち
世界と私、主体と客体、という二元分離をスクリーンに生み出しておられる
「見ている私」と「私が見ている対象」の分離という錯覚を生み出しておられる
従って
この個別的霊魂が自身である鏡(スクリーン)に映し出され
投影されているそれらの映像を見て、その心や自我を自分だと錯覚しているのである
主体ではないものを主体だと思い違いしているのである
そのスクリーンは私のスクリーンでもあなたのスクリーンでもない
映像を映し出しているスクリーンとは自他の区別はなく分離していない
だが
そのスクリーンの窓である個別的霊魂は、それら映し出されている心と自己同一化している
即ち心であるマインドの熟睡、夢見、日中の覚醒という意識の三様態と同一化している
けれども
本当の自分とはスクリーンや鏡に映し出されている対象やその対象と分離している
分離している主体ではない
自分はそれを映し出しているスクリーンなのだ
即ち記憶ではなく、思考ではなく、
意識的自己・人格ではなく、
自我ではなく、
統覚機能の私でもない
感情ではなく、知覚ではなく、肉体ではなく、諸体でもなく、行為でもなく、私でもなく、出来事でもなく
心でもない
それらの映像は神聖なる神の映像、神が演じる神の劇場、神のドラマなのだ
個別的霊魂とはそれら心が映し出されている鏡であり、スクリーンであり
完全なる心の停止、完全なる思考の停止、
即ち完全なる静寂、沈黙なのではないか
心ではない完全なる沈黙こそが本当の私なのであるといわれている
だが
その本当の私が顕れる為には
個別的霊魂を何重にも覆っている虚偽を虚偽とみることが
マーヤをマーヤとみることが
あるがままを完全に受容し全託することが
自我や意識的自己に起こる必要がある
それはこの記憶が浄化され、意識的自己が沈静化し、自我が清らかになり
心が透明になるということに他ならない
それとは即ち個別的霊魂の内奥と繋がると言うこと
けれども、その内奥、それを自我が知ることは出来ない
それを私が知ることは出来ない、知るということ、私がと言うこと自体が心という頭脳の働きだからだ
それとは知識や言葉ではなく、知識や言葉を超えており知識や言葉を支えている心の基底であり、
スクリーンであり、鏡であり、窓であり、沈黙であるからである
それは至ることはない
何故なら既に至っているからで在る
至ろう、なろうとすることが、マーヤである心・マインドの動き、自我の動きに他ならない
なろう、至ろうとして方法を探し回り、実践することこそ私という観念である
それこそが自我の動きに他ならない
自我は鏡ではない、スクリーンではない、スクリーンに映っている意識だ
スクリーンや鏡が本当の私なのである
その自我の最たる動きが自分である自我自身を非難し、判断し、逃避すること
自我は決して自我を受け入れず、自我の作り手である神に全託しないからである
常に何かに成ろうとし、それになろうとし、同一化しようとする・・・それが自我の働きである
それ・真の私になることはない
それは既になっているからで在る
それになろうとし、実践し、努力し、方法を模索している私こそ、神の幻術である「偽りの私」だ
神・純粋意識がお使いになっている自我の動きだ
その自我とは記憶であり、記憶の反応だ
自我とは「実在していない私」、スクリーンに映し出された神からの「映像の私」に他ならず、
その私こそマインドそのものであり「私という観念」そのものである
個別的霊魂が私ではないものを私だと錯覚したのだ
個別的霊魂には
肉体や諸身体や感覚や知覚や感情や願望や感情や欲望や思考や
知性や記憶や意識の三様と同一化することなく
そしてそれらを生み出している私という観念・自我と同一化することなく
ただ自分自身であることが求められているのではないか
それが静寂であり、沈黙なのではあるまいか
・・・・・・と考えている