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 観察ではなくて観照


  起こっている思考や心を観察するのではなくて観照することが肝要なのではないか。

  行為や知覚や肉体や出来事を観察するのではなくて観照することが肝心なのではないか。

  思考や自我を観察することは、観察自体が思考や自我の働きであるから、観察では思考や自我と一体化してしまい

  観察することによってかえって主体と対象の分離が強まってきて、マインドの特性である自己意識が強化され自己が強く意識

  されてきてしまう。

  故に、観察することではなくて思考や自我を観照することがポイントとなってくるのであろう。

  既知である心の働きが観察であり、未知なるもののはたらきが観照なのであろうからだ。

  では「観照しているのは誰か」?という質問自体が思考や自我から発せられているだろうが、観照には自己の感覚はないであろう。

  自己を措定することこそが、即ち「私は誰か」という問いこそが自我・マインドの本性なのであると思われるからだ。観照にはその

  質問はありえない。観照には自己もなく心もないからだ。

  この心、マインドがいない場合「私は誰か」と問う主体がいないのであるから、観照しているときにはその問いそのものがあり得ない。

  観察は私がしているが、観照では私という「心」は関わっていない。対象である分離主体がいないからである。とそう推測される。



  起こってくる思考や想念や行為や出来事を観察する事なくただただ観照する。それらに反応している「私・こころ」を分離なく観照する。

  自我の反応や記憶の反応、現在意識と、夢の意識と無意識を観察する事なく観照する。

  それこそが自己想起と言われている事柄だと私は思っている。


  朝、目を覚ました現在意識と夢の潜在意識、熟睡しているマインド、それらを観察する事なく

  ただただ観照すること。

  知覚を観察する事なく観照すること。

  沸き起こる想念や私、思考・知覚を、そして行為を非難・判断・逃避することなくすべてを受容してただただ観照すること

  観照している中でも行為は起こり、知覚は起こり、思考は起こり、出来事は起こり、私は起こり、そして過ぎ去っていくことだろう。

  観照・・それこそがエクササイズであると言えよう。