人には創れないもの
人には創れないものとは何だろうか?
自分には生み出せないものとはなんだろうか?
それはすべてである。
すべてのすべては人には生み出せないのである
・・ひとにはこの良いことも悪いことも、目に見えるものも見えないものも、内も外も私には生み出せない。
人に生み出せない最大のものそれはこの自分である、それはこの私この心であり、この自我である。この自我は生み出されている。
人に生み出せないものとはサムスカーラを帯びたこの自分という自己意識を持ち、ある傾向を持っている私のことである。
衝迫と知情意と記憶のサムスカーラで染まるこの自己意識は、その同じ自己意識によっては生み出せはしない。
私達とは意識(心ではない)から生み出され創られた心であり、その心の結果なのではないか。
(脳とは心の側面であり、心の物質界に於ける表現である)
また人には出来ない事それは
動くこと、動かすこと、行うこと、すること即ち行為である。一見するとすべて自分が行為しているように思えてはいるが
肉体を動かすことは全身の神経と筋肉と呼吸と脳が完全に統合しておらなければならず
そのネットワークを遂行し、錯覚である「自分が行為している」という実感を持続させることそれは
この自我若しくは意識的自己にはまったくもって到底不可能なことであるといえる。
同じように
自分が行為していると錯覚させている、この錯覚及び錯覚の記憶である個別的な私を産みだしていること
行為が脳のネットワークで生み出されているように、即ち行為は起こっているにもかかわらず
自分が行為しているという錯覚を、さも真実であるかのように、思わせてしまう、その嘘の実感。
五感、知覚、認識、その記憶それらは全くもって人類や個人やいかなる意識体にも出来ないことだ。
それは根源から起こっているマーヤだからだ。
同じくそれは脳と心、即ち意識の事だ
眠り、夢見、覚醒という状態を維持させ、脳と心そのものを生みだし、機能させ、感覚や知覚そして記憶を完璧ならしめ
ありとあらゆる事を行っているこの脳を人には生み出すことも維持させることも出来ない。
というのも脳(心・諸体の脳)によって行為と同じくこの私という自己意識が生み出され維持されているからである。
私こそ、この脳の結果であり、心の結果であるからだ、心でもある脳が私も世界も行為も意識も生み出しているからだ。
にもかかわらず、自分が脳をコントロールしようとしている、脳をコントロールしようとすることも脳が生み出している
のだというのに可笑しいことだ。いくら遺伝子を操作しても遺伝子を生み出し支えている「意識」によって遺伝子は替えられ
てしまうというのにだ
このほかよく考えれば、
顔の表情、呼吸をすること、心臓を動かし生命を維持させること、爪を伸ばすこと、消化をすること、細胞を新陳代謝させること
知覚や五感を維持し機能させることなど
衝動を生みだし、肉体と諸身体を生み出すことも死ぬことも(誕生することも死亡することも)
この意識的自己というサムスカーラの私には全く出来ない事柄である。
この自己意識とは意識と名乗っていても意識ではなく心であり思考であり、結果である質料若しくはある種の物質であり意識ではないからだ。
この意識もどきの自己意識・カルマ・行為・サムスカーラを生みだし記憶を持続させているものこそが意識であり
意識があるからこそ、この意識もどきも存在していることが出来ている・・・とそう考えるこの頃である