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脳が生み出しているもの


(※ここでの脳とは心が生じているもののことで物質的な脳を含んでいる)


私が想う?
私が考えている???
私が思考している???
私が意識している???

それら想う、考える、思考する、意識するは、
「私」が、ではなくて
脳が機能していることの結果として発生している意識の事だ

「そのように私がしていると錯覚する私」も含めて、
それらの私という意識とは脳が生み出していることだ。

(主体と客体の分離は条件付けられている脳が生み出している)



呼吸や心臓の脈動や睡眠と同じく
「私の身体だと思っている私」が自分が意識していると思って錯覚しているのと同じく
意識とは脳内に起きている事柄なのではないのか?

私が意識しているのではなく、意識が脳に起こった結果、私が発生しているのだ


顔の表情の筋肉を自由自在に動かし、
眼球を瞬時に自在に動かし
網膜に焦点を合わせ、映像を認知せしめ、知覚作用をならしめているのは脳なのであり、
その脳が意識を生じさせているのである
それら眼球で見る事をならしめているのは「脳が生み出している私」がしているのではなく、
それら五感も知覚も認識も脳の機能であり脳が行っているのだ。

そして
この脳をあらしめ、条件付け、機能させているのが
未知であり、絶対主体とも言われている純粋意識のことだ
私達脳の結果である思考や思考の記憶では、決して理解できない次元が異なる意識の事だ
心を超え、思考を超え、言葉や知覚や意識では認識不可能なのが純粋意識だ
世界はこの純粋意識によって生じ、維持されている



呼吸や心臓の拍動や睡眠や覚醒が脳によって起こっている事柄であるように、
この「私が想う」、 「私が考える」、「私が思考する」、「私が意識する」という「私」の錯覚も生み出されていること、
起こされているという事ではないかということだ。
内部も外部と同じようにありもしない「私」が脳によって起こされていることなのだ。

脳によって行為は起こり、
その行為に対して「判断や非難や評価をする私」も
行為と同時に脳に発生している
判断や非難や評価する私とは行為に随伴して起こっている意識現象なのだ。行為が先で知覚は後におこっている。

その想い、思考、意識、それらの心といわれるそのものがこの個体に行為の後に起こっているのだ。

私が思っているのではなくて、「私が思っているというその思い」と、その思いを「自分が思ってい ると錯覚する私」という実感が
同時に脳によって生み出されているのだ。

それら私が為しているという実感とは
条件付けられている脳によって生み出されている「私という観念」の実感であり、 その私という観念がこの脳
によっておきているということではないだろうか 。

この「私という観念」即ち自我が脳によって起きていて且つ幾生にわたってその記憶が維持され持続されているということだ。
この自分という限定された意識、「自分が行為していると実感する私」そのものが 脳によって生み出されている錯覚なのだ 。
それがこの私、行為している実感を持つ私なのだ。この私とは脳が生み出した錯覚の記憶なのである。

この「私という自己意識」は脳によって生み出されている錯覚なのだ。
即ち 私という私自体の自己意識が脳中心から起こっている事柄(錯覚)なのではないか ということだ 。

私という錯覚がこの脳から生じており、それは根源からの神聖なもの(錯覚)であり、従って根源のコントロール下にある
それ故に、それが
「私が意識する」
「私が考える」
「私が生きている」
「私が行為している」というのだ。だがそれは錯覚自体であり、それは脳から生じているのだ。


これらは行為と同じく、
あたかも自己という主体が起こしているが如くに見えていて 、且つ記憶である自己にはその様に実感していても、
事実はプログラミングされている肉体が行為している のであり、その「私が為しているという実感」は真実とは異な
っている

これら内面の事柄(意識・思考・感情)も実際には外部の事柄と同じであり,起こっている。
「記憶である私」に関与することなく起こっているのであるということではないか。

実際は起こっていることに関与していると想っている私こそが、
その「錯覚している私」に関与なく 起こっている脳の現象の一部=記憶の反応だと言うことだ。

この「考え」も、「考えを述べているこの私」も脳の結果で有るといえる。

この「純粋意識という神が脳を使っている」と考えている・・・この私の考えも脳の結果で有り
「いな否、脳とは単なる進化の結果で有り、単に自然に起きている宇宙の営為で有り、神などではなく
単純に唯物的思想で充分だ」などとする考えも同じように脳からおこっている単なる観念なのである。
または、「私とは個別的霊魂であり、実際に良いことも出来れば良くないことも出来る、神はこの自由を人間に
与えておられるのである、それ故に行為の責任はそれぞれの霊魂にあるのだ。そしてその行為の結果である
カルマを受けとるのだ」云々
これらの様々な観念はすべて脳の条件付けの結果であるからだ。
「神がある」「神はいない」「行為している」「行為していない」も共に観念であり、脳の条件付けの結果にすぎない。

ここに述べていることも、反対していることも、賛成することも、唯脳論、唯物論も、唯心論も、唯神論も
未知なる純粋意識ではない。
いかなる経験や素晴らしい体験も、その観察者がいる限り観念・マインドの領域にあり純粋ではない
純粋意識とは脳を創造し、脳をあらしめ意識をあらしめている意識で、それは意見や考えや経験・体験に左右されることはない。
現実だからだ。

大脳生理学が脳に於ける実験結果で導き出したことをどう解釈するのかは、それぞれの個体に於ける
脳の状態によって異なっていても、いずれの解釈も脳が引き起こしているということだ。

自我「私という自己意識」の考えとは出来事と同じく、脳が引き起こしていることがらだからだ。
それら自己意識とはその肉体の行為や出来事と同じく、脳の結果なのではないかと思われるのである。
そしてその脳はかくも完全に機能しているのである。条件付けられているが・・・。

私という自己意識が生きているのではなくて、脳によって私という自己意識が生じているのだ。

起こっている出来事や肉体と同じように頭脳によって生み出された私が、
その起こっている行為や肉体や出来事に対して非難や評価や逃避をするのである。

なんという素晴らしい根源の御技なのであろうか!!



私達とは心であり、その心とはこの個体に起こっている現象であるといえる。

感じる事、思う事 考えていること 意識していること 苦しむこと、悩むこと 好きになること、嫌いになること
非難すること、判断すること 逃避すること 恐れること、不安になること イライラすらこと、スッキリすること
愛すること、憎むこと、救うこと、壊すこと、癒やすこと、傷つけること、善と悪、敵と味方、私とあなた等々

それらは条件づけられている心の反応即ち私の反応であり
肉体の条件反応と同じく、脳の条件反応なのではないか
そしてその脳を使って根源が生きて行為しておられる。

それらの反応している私とは、条件付けられている脳の思考の記憶であり、その記憶の反応であるといえる。

その私とは心であり「私という観念」であり、それが個別の脳から生じているものであり
心自体が、意識自体がその「私という観念」であるから
私という自己意識が どの人間にとっても同じようにこの個体に生じ、ここで機能しているのである。

全人類が全く同じ脳であるからだ。同一の脳の結果であるからだ。


すべての人類が一人も残らず全く同じように同じ構造の脳の結果である。全人類は同一の構造の同じ脳によって
「自分は人とは全く別の自己存在だ」と思い込まされているのである。
人類とは脳を機能させ脳を生み出した叡智の一部なのだ。
その叡智が脳を使って個人を演じておられるのである。




行為と同じく、この生み出されている意識自体が虚偽錯覚でありマーヤ・無明と いえるものなのであり、

実際には存在していない私という個別の観念そのものである「私という観念」によって生み出されたも
のだ、それがこの自己意識・私なのではないか。
個別の私などいないのにこの錯覚が生き続け、こうして人類はお互いに反目している。

脳を通じて虚偽の自己意識即ち私という観念・自我が起こっていると言うことだ。それが継続してると言うことだ。

他人と分離している実感を持ち、自己が行為している実感を持っているこの私という 自己意識とは
脳を媒体として生み出された虚偽の意識なのだということではないか。

このことは肉体や、諸身体に関しては割と分かりやすいのだが、
こと、この心や意識に関しては 行為と同じくわかりにくく、
まさか行為しているという錯覚が、私という観念がしている錯覚であり、
この「私という観念」である根本無明が脳を媒体として
「私という〝非存在である自我〝」を産みだし「行為を為していると錯覚」しているとは一般的には想われないことだろう。

しかもその根本無明である心という「私という観念」は脳の中心から脳を通じてうみだされている。

これがマーヤと言われている事柄なのではないか。

自己意識という現在意識と潜在意識がミックスしたもの。この意識自体が「偽りの非存在で あり錯覚の私」であり、
この私・自我を産みだしている心が 脳内中心から脳と一体化した結果であるとは気がつかないことだろう 。


この爪が伸びるのも、涙が出たり、口から食事をして消化して、おいしいと感じている五感も、糞をするのも、
尿が出るのも、まぶたの開閉も、歩くことも、絵を描くことも、スポーツも、踊ることも、性行為も呼吸や心臓の
拍動と同じく根源で なければ誰に出来るというのであろうか
実際は話すことも、見ることも、踊ることも、学ぶことも、人を救うことも、行為は神でなければ何も出来ないのだ。

しかしこれらの事は誰にも分かりやすく、納得されやすい。

自律神経と体性神経を連動させて筋肉を動かす・・行為と言う事柄を成立させ
自分が行為しているという実感(錯)覚を生みだして
記憶に対してあたかも記憶である私が行為しているかのように信じ込ませ
その自分・自我という条件付けられている思考の記憶を継続させているのは
この「結果である意識の私」では無くて
「行為主体である純粋意識」である。
マーヤが行為主体なのだ


純粋意識である根源がマーヤを生み出され、
マーヤが行為し、マーヤが苦 しんでおられる、
マーヤが自我の私という媒体を通じて生きておられるのであり 演じておられるのである。

この自我こそが「純粋意識という根源」が仮面をかぶっておられるものだ
苦しんでおられるのは神であり、
悩み、懊悩呻吟しておられるのも神なのだ 。人を愛するのも、癒やすのも神がなさっておられる。
神がこのマーヤをお造りになりこの無明を体験なさっておられるのである 。であるから、
この「私という意識」が朝、目を醒めたのではない、
朝に目覚めたと言っているのは各体の脳の記憶であり、脳が目を覚ましたのだ
故に覚者達は脳の意識ではないので眠ることもなく、夢を見ることもなく、ただ見ているのである
それは純粋意識であるからだ
その脳に絡んでいる記憶である意識即ち自我が私は目を覚ましたと言うのである。

この朝、目が覚めたのも、夢という記憶の反応も、熟睡も脳の状況であり その脳の状況なのに、
脳によって生み出されたその記憶が
自分が目を醒め、 自分が夢見て、自分が熟睡したというのであるから主客が逆転している。

私が目を覚ましたのではなくて、各体の脳が目を覚ましたのであり、そして記憶が活動しだして目を覚ま したという
のである 。


私が夢を見ているのではない。
夢という記憶の反応が自動的に脳の中で起こっているのである。
その記憶の反応が 私という自己意識なのである。
それをその記憶が夢を覚えているので自分は夢を見たというのである。

夢の中身も、夢を見ている私も記憶の作用であり、記憶の反応なのだ。記憶が自我だからだ、私だからだ

夢というその微妙なシステムの運営には私という意識が介在出来ないし、していない。

私とはシステムの結果だからだ 「私だという私という観念」とは心であり、そのシステムが生み出している結果である。

その記憶即ちその心・私とはそのシステムの結果なのである。

神は心を用いている、即ち各体の脳を媒体にして、 「私という観念」・心を脳中心から投影して思考を生みだし、
その思考の記憶が 自分は思考している、自分は考えている、自分は経験した、自分は体験した と言うのである。

だがしかし その自分自体も、 その考えている内容である思考も 幾万世紀にもわたる継続している記憶の結果であり
記憶の反応なのではないか

心→思考→記憶→私達の自己意識→その記憶条件付けられている反応 ということがこの脳を中心に起こって
いるのである 。

私が妄想しているのでも、私が考えているのでも、私の意見でもない
私自身、その妄想自身、その思考自体、その記憶自体、その意見自体が 即ちその意識そのものが条件付けられ
ている脳からで有り その脳を創造し維持されているのは純粋精神である神からのものである。

神から起こっている。
そしてそれらを自分だと思っている自我、そして統覚機能という個別的霊魂自体を 神が用い、使用し、神が
表現しているのではないか、純粋精神のことである。

この神といわれる未知なる根源が起こしている行為とはこの私意識に出来る事柄なのであろうか

「行為は私が為している」と思っているその私自体が被創造物で有り
根源が被創造物を使用しておられるのである

私達、私という観念は神の表現媒体なのである、
根源による行為が生み出したことそれが私である。

同じく意識は私のものなのか?
私が意識しているのか、
それとも脳を中心に起こっている意識システムが「私」を生みだし「錯覚である私」を持続させているのか

考えとは私のものなのか?
私が考えているのか?
それとも考えというものが私を生んでいるのか?

思考は、想う事は、意識とは、私が思考し、想い、意識しているのだろうか?
それとも 思考も、想いも、意識も、「私」が思考し想い意識しているのではなくて
神が、脳を使い、心を用い、その特定の個体に起こしている神自身の表現それが意識なのではないか

自我という錯覚は 神からの思考であり、思いであり、意識であり、
神が引き起こしておられる錯覚現象なのであるのではないかということだ

私が思考しているのではなくて、
心や思考が脳に起こった結果として私が生じている、


というのも心自体が、私のものではなくて神のものだ
思考自体が、行為自体が、そして私自身が 神の芸術作品であるからである。

私という観念・自我とは神が使っている表現媒体としての「こころ」のことであり
意識や記憶といったものそのものが神の使用しておられる媒体である

それが私という錯覚そのものであり思考という質料から成り立っているのである。

この私・自己意識とは神が「私という観念」を使い、起こしておられる錯覚なのである 。

行為も心である「私という観念」と同じく神が起こしておられる錯覚なのである。

この錯覚を用いて神は現象界で演じておられるのである。

私とは、
この私という意識(私という観念)とは壮大なる錯覚であり、その現象界マーヤの構成の 一単位であるといえる


本当は神以外何も存在しておらず、あらゆるものは神の演技なのである

神の演技、それが心であり、私という観念であり、この自我なのではあるまいか


と考えたりする今日この頃である