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現在のパーソナリティーが作られた目的





私達、現在のパーソナリティーは何故ここにいるのだろうか?意識や知覚は何故に創られたのか?

私達、現在のパーソナリティーが創造された理由とは何なのであろうか?

私達、転生を繰り返しているこの現在のパーソナリティーの存続している目的とは一体何か?

各体の頭脳の記憶であり、行為によって生じ、私という観念であり、熟睡と夢見と覚醒というマインドそのものである私

この特定の身体と結合したために、個別的ではないのにそれぞれが全く個別的だと知覚しているマインドである私達、

魂からの放射である、この私達である現在のパーソナリティーは何故ここに「個」として継続しているのか?

すなわち私達である「私という観念」である私は何故、存続しているのかということだが?


それは、明白である。それはキリストの言葉によって顕されているように

「友のために命を捨てる、これより大いなる愛はない」である・・・これは明確に示されていることだ


私という観念と一体である現在のパーソナリティーが友のため命を捨てるという、この自己が絶滅し終焉すること

この「愛」が

この現象界に誕生することが私達が作られた目的に他ならず

それは神のためや、国家のためや、ある特定の人類や、宗教や、イデオロギーのために命を捨てるというのではない

またそれは自分が悟りを開くことでも、自己が実現することでもない

それらはいずれも「自己実現・自己放棄」という名を借りた自我の自己拡張に過ぎず、決して「愛」ではないからだ


私達は肉体だけではなく、自分の自己を、そして自分の魂をも「友」のために

喜んで捧げる「愛」と一つになる可能性があることをキリストはここでハッキリと明言されているわけだ

私達である個別性は終焉することが可能なのであるこの個別性こそが虚偽に他ならないからだ

虚偽が私達の本性であり、その虚偽とは条件付けられている思考の結果でありその条件反応なのだ。それがこの私だ。

私達人類は思うことも願うことも切望も絶望も意志も即ち心の中身は条件付けられている思考の記憶の条件反応なのである

それが私達の意識の中身であり、自分自身なのである、目を瞑ると何も見えないのは思考には目がない証拠であり

夢の中で繰り広げられるのは、この記憶の中身である。それが経験、体験、知覚だ。

現在のところは、私達は私という観念そのものであるが、その観念が「愛」と一つになる可能性が有るのだ!!

それこそが時間が作られた理由でもある。


私達は「友」であり被造物でもあるすべての有情・無情を愛することが出来、そしてそのもののために自己を

心の底から喜んで失うことが可能なのである。その時そこに「愛」が溢れているからである。「愛」には自他は一つだからだ。

この自己が「大いなる愛」と一つになって、自己の肉体のみならず、自己そのものを、生命をも友に捧げることが

出来るように成ることが、私達個別性という現在のパーソナリティーが創造された目的なのではないか

それこそが自我による偽りの「自己放棄」や「自己実現」ではなく、愛による「自己放棄」「自己実現」にほかならない

それこそが自我の終焉、心の終焉に他ならない。


私達は自己を失うこと、愛そのものとなってあらゆる友のために、いのちをそして自分自身も捨てること、失うこと

が可能なのだ

これこそが現在のパーソナリティーが創造された目的なのではないか。

と、私は思うこの頃である