私達は三重の色眼鏡をつけている、三重の私に覆われている
私達は三重の色眼鏡を付けている
即ち
私達は三重の私に覆われている
1番外側には記憶と思考・知識そして、起きている事に対して反応としての色眼鏡
・肉体としての私、五感、根源が使用している肉体の行為
・実際に根源によって行為している肉体の私、その肉体の感覚・知覚と能力
・諸体の私(DNAの私、DNAが現している私、DNAに条件付けられている私)
・条件付けられている記憶とその記憶の反応の私、衝動の私
・自我としての記憶である過去世の私、ワサナの私
・今世の条件付けられた記憶としての人格の私(仮面の私)
・動物魂の私
・集合的無意識の私
・エレメンタル・想念形態の私
2番目には自我の色眼鏡(自我・サムスカーラとカルマの衝動)
・幾世を通じて継続している私、(神経組織に浸透して脳・肉体と同一化した私)
・純粋意識からの意識が「私という観念」に触れて発生している自己意識・自我
・自分が行為していると実感している「私という観念」に自己同一化している私
・自分が行為していると信じそれ故に、カルマを生みだし、カルマに縛られている私
・起こっている内と外の実際の出来事に振り回され、条件付けの記憶から対応している私
・転生を通じて輪廻し続け、脳とDNAそして肉体・諸体を私だと信じている私
・現在のパーソナリティーの私
・可塑性と可能性が有り、清まることも混濁することも出来るこころとしての私
・鏡の部分でもあり、透明になれば真の私を映すことも可能な私
(クリシュナムルティーによって見なさい!、ラマナ・マハリシによって在りなさい!といわれている私)
・鏡(魂)の表面である私、いろんな段階がある私、統覚機能である私
(この自我を純粋意識が使用し、自我が私という観念と同一化することにって
自分が行為しているとの錯覚を自我に起こさせているといわれている)
3番目の最も内側の色眼鏡はマーヤである「心そのもの」の「私という観念」の色眼鏡
・根本の「私という観念」という根本無明の私
・全人類共通で同一の「私という観念」そのもの、根本の恐怖と苦しみ悲しみでもある
・分離していないのに自らを分離していると錯覚している根本無知、根本錯覚
・全人類の自我に共通の心、その心自身の根本の私
・すべての思考と感情を生み出している根本の分離二元性の心(私という根本観念)
・「見る者と見られるものの分離」、「自と他という分離」、「主体と客体の分離」の幻想そのもの
純粋意識を無と間違えて捉えているのはその色眼鏡だ、心という色眼鏡である私だ
その私とは「私という観念」の私だ
それぞれの色眼鏡が自身である色眼鏡に気づくとき、
色眼鏡自体を色眼鏡が色眼鏡なく照見するとき
色眼鏡は透明となることだろうといわれている
思考なき、心なき、純粋で普遍である観照の目が
(クリシュナムルティーによって「見なさい」といわれているこの目による「見る」が起こったとき)
熟睡中も、夢見時も、日中の覚醒時にも絶えざるこの心ではない(私を含まない)純粋意識の目が
この1~3の私に誕生するとき(あるいは1~3の私と繋がるとき、又は1~3の私と一つになるとき)
即ち普遍的で純粋な「見」が、これら色眼鏡を透明にするとき
色眼鏡は色眼鏡ではなくなり、純粋に見ることが起こる
そのときこれら1.2.3の私は非実在であることが観照されると言われている
純粋意識だけがあったのだと