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条件付けられている人類の心



人類の心とは等しく条件付けられている。

私達の心とは人類の心そのものであるので、同一に同様に人類全員が等しく条件付けられている。

私個人・私達とは人類であり、地球の人類全体が同じように条件付けられているのではないか。

では、その条件付けとは何であろうか?

条件付けとは、まさにこの心のこと、人類全体に同じの、この心そのもののこと

私達とはこの条件付けられている心に他ならないのではないか



その条件付けられている心の内容を思いつくままに列挙すると

■:根源の恐怖、根本の不安、深層の悲しみと苦しみ

  (表面の恐怖ではなく無意識の全人類で同一の深層の恐怖・不安・悲しみ・苦しみ
   それらこの条件付けられている心はこの心から逃避するためそれらを受容し又は超越しようとする)


■:肉体を自分だと思っていること

  (死後、肉体を失って幽界に移行しても、なお自分は肉体だと確信しておりその知覚をしているのはこの心だ)


■:この条件付けられている自分のことを「私」だと思っている私

  (私、私というときこの条件付けられている私の事を私だと実感しているのがこの条件付けられている心である。
   この私とは心であるので常に対象を知覚しており、知覚者は知覚されるものだとの知識はあっても実感はない。
   「行為は起こっており、神が行為している」との知識はあるが知覚はその逆であり、実感もその知識と逆である)


■:競争心

 (私が他の誰よりも先に神にいたろうとすること。神と一体になろうとすること、愛深くより良い人間であろうと
  すること。
  真の私や神を対象化するのはこの条件付けられている心の作用である。真の私や神は決していかなる次元・段階でも
  知覚の対象ではない、未知なる絶対主体であるからだ)


■:自尊心・プライド

 (常に自惚れており、自分は特別だと思っており、人や神から認められたい、よく思われたい、恩寵を得たい
  と思っている。だがこれこそ最も平凡な人類共通の条件付けられている心の特徴である。
  常に一番を目指しているので誰よりも先に自分が悟ろうとし、自分が神と一体になろうとしている。これが最も
  平凡なのに自分は特別だと信じている)


■:自己関心

 (自己のことを常に意識しており、自己に関心があり、他人のことには関心がないのにさも関心があるように自己
  を欺いている。条件付けられている心とは常に条件付けられている心を意識している。そしてこの自己意識から
  超越したいと願っている。そしてその為の方法を探し出し、実践し、結果を体験するのだが、その体験者という
  自我が強化されていることに心は気がつかない)
 

■:経験し、体験し、知識を得ようとすること

 (経験し、体験し、知識を得ても条件付けは解除されない。経験し、体験し、知識を得ているものがその条件付け
  そのものであるからだ。
  経験すること、体験すること、知識を得ること。知覚が拡大しても条件付けの範囲であり、この動きそのもの
  が条件付けられている心の特徴である)

■:愛がないこと

 (見る者と見られるものの分離、主体と客体の区別、自と他の分離実感がある限り愛はあり得ない。ないのに
  私には愛があり、私には分離がない真我だと思い違いをするのがこの条件付けられている心の特徴だ)

■:至ろうとすること、なろうとすること

  (至ろうとすること、なろうとすること自体が条件付けの特徴である、その至ろうとすることがマーヤである時間の
  特徴であり、私という観念そのもの即ち自我の特徴だ。至っていること在ること、既に在ることを理解しない
  何故ならそれは心であるから理解しないのだ)


■:何かを成し遂げた、または何も成し遂げていないとの実感

  偉大なこと、業績、成果、悟りを得ることを成し遂げたという達成感、または自分は何事も成し遂げていないという
  失望感、これらの自分の成果又は不成果、自己の責任、または無責任感は自分が行為している、自分が選択している
  という実感が引き起こしている。この自分が行為している、自分が選択している、自分の自由意志という実感こそ
  条件付けられている心の特徴であり、この心特有の知覚なのだ 
  

■:この条件付けは自分だけのもの、自分自身だけと思っているのが条件付けである、全人類が同じ条件付けなのである


この条件付けの解除(自我の終焉)とは、条件付けを行った純粋意識が行うことであろう

何故ならこの心とは、そして条件付けられている心・自我とは、心なく観照している純粋意識の一部であるからだ。

純粋意識がなければマインドもなく、心もなく、私という観念もなく、善も悪もない、敵も味方もない。神も

悪魔もない。

純粋意識が基底に存在していなければ自我もなく故に無我もない。善も悪もない。迷うこともなければ、悟る

こともない。

善悪を生みだし、敵味方を生みだし、自我を生みだし、多様性を生みだし、悲しみと喜びを生みだし、誕生と

死亡を生みだし

敵味方を生みだし、病気と健康を生みだし、愛憎を生みだし、混乱と調和を生みだし、そしてそれを支えてお

られるのは純粋意識なのだ。


太陽は善人にも悪人にも等しく光を照らし、限りない恩恵を与えて下さっている。

空気は悪人にも、善人にも、迷える子羊にも、悟りを開いたイニシエイトにも等しく生命を与えられている。

純粋意識は良いものにも、悪しきものにも分け隔てなく等しく恩寵として意識を与え、また生命を与え、愛を

与えておられ

るのである。心臓の鼓動を、呼吸を、心を、分け隔てなく等しく与えておられるからである。


純粋意識が知覚主体である「個別的霊魂という統覚機能」を通じて

この私という観念を用い、その記憶である私達・自我を肉体及び諸身体と結合させ

「自分が生きている」「自分が行為している」「私は肉体である」との錯覚を自我に抱かせ

現象界を生きておられるのである。

なんと素晴らしいことか!

なんと、私達自我とは光栄なことであろうか!!

私達自我は如何に善悪の事柄にまみれ、渇望に覆われ混濁していようと、その混濁も迷いも、恐怖も不安も

心配も悲しみも嫉妬も

増上慢も自己関心も、自我の自我たる醜さも決して醜さではなく、純粋意識の媒体であり、光栄なる事柄

起こっている事柄なのである!!

これこそが絶対なる愛の発露でなくて何であろうか!!