意識は条件付けられている
私達の意識は全く自由ではなく、条件付けられている。
意識は条件付けられているのだ。
何故恐れるのか、何故自分が恐れていると思うのか?
何故、嫉妬するのか、何故嫉妬心を自分だと思うのか?
意識自体が条件付けられているので恐怖は恐怖と恐怖を見ている観察者に分割してしまうのである。
私達の意識がその様な状況の時を迎えたとき、その様に反応するように
意識自体が条件付けられているからだ。
肉体もDNAで条件付けられているように、意識も深く条件付けられている。
何故私達は恐れるのか?何故愛することが出来ないのか?
それは私達人類全てが等しくその様な状況を迎えたとき、その様に反応するようにこの意識自体が
条件付けられているから、その様にすべての人類の意識は等しく同じように反応してしまうのだ。
私達全人類の意識即ち記憶の反応は、この記憶がどう反応するのか、それは条件付けに従っている
この意識、私達の意識は眠っている間も、起きている間も共に等しく条件付けられており
日中の意識も、夢見の意識も共に記憶域からのみならず、もっと深い意識層からもそれは条件付けされている。
個体間の僅かな相違はあるにせよ、この意識は「私が」「私のもの」「私の」「私は」に全く条件付けられ
この条件付けに従って「何故私の事を無視したりするのか」「私の方が優れているのに何故敬わないのか」
といった自意識、自尊心を初め、諸々の「私は」「私の」を中心にした欲望、願い、想念がそのようにして百出している。
この意識の条件付けは、私個人が条件付けたのではなくて、私達の意識そのものが条件付けられているのである。
一番になりたいと思い、人より先に神に至ろうと思う競争心、誰よりも自分が尊敬されたい、愛されたいと思う自己欲
自分のことは誰よりも優先するといった自己中心の考え方などは意識の条件付けの結果に他ならない。
願望が叶い、宝くじが当たり、地位名誉が与えられ、最高の才能が与えられ、高次の知覚?や高次の意識?を獲得しても
自分自身が条件付けから解放されていない限り、恐怖と不安、利己心からの解放はあり得ない。
条件付けからの解放はあり得ない。
私達の意識は条件付けられている。
この意識の条件付けが日常及び睡眠中の意識を占めており、活動しているかぎり、
意識はこの条件付けに従って意識し、恐れ、一番になろうとし、愛していると思い込み、悟ったと思い込む
この条件付けが働いている限り愛もなく、恐怖からの解放もなく、正見もないことだろう。
「私は」「私が」「私の」が残っている限りは、あるがまという真実を見ることは決してないことだろう。