私達は個別的霊魂である
私達とは個別的霊魂なのだ。
個別的霊魂が自身の内奥の生命と共に肉体に入ったからこそ心臓は動き呼吸をしているのだからだ
さて
この私だと思われているところの「私群」とは決して個別的霊魂ではない。
それぞれの個性を持ち、それぞれの衝迫をもつ私とは個別的霊魂ではない
個別的霊魂とは分離ではなく個人ではないからだ。
各輪廻に亘って継続し、サムスカーラに色づけられている「記憶の私」は、脳の条件付けに従って作り上げられた私でありそれは私達では決してない。行為の後に生じている「私という観念の記憶」なのだ。
記憶の私とは個別的霊魂が肉体に宿ってから脳の形成に合わせて徐々に形成され、蓄積されていく記憶の私のことであり個別的霊魂としての私達ではないのだ。
この記憶の私には自由意志があるという錯覚があり、行為しているという実感はあるが、実は起こっていることの結果に過ぎない。条件付けの結果なのだ。既知なる私とは起こっていることの一部であり、現象なのだ。
それは根源が使用しているマインド(私という観念)の記憶なのだ。
思考やマインドが静止していない限りそれは未知なる私ではない
自他の分離と二元を見ている限りはそれは未知なる私ではない。
自と他を分離し、自我と真我を異なっていると見ている限りは未知なる私ではない・・それは私という観念が見ているのだ。
私達とは、肉体に繋がれ思考や記憶にマインドに、カルマと私群に繋がれているが思考やマインドではない。思考なく見ている私が私なのだ。
朝、目を覚まして(又は夢の中で)自他を分離知覚しているのは私という観念
であって個別的霊魂の内奥の私ではない
ただ、この個別的霊魂は現在は目が殆ど開いていないので正しく見ることが出来ない。未知なる私が私なのに「私という観念」を私と思いこみ、それと同一化し、肉体を私だと思い込んでいるのだ。
既知なる私はマインドの領域にあり、それはマインドであり、その記憶だ。
個別的霊魂は既知なる領域であり、非分離のあちら側から見ると「私という観念」の主体であり、既知である分離現象側からみるとあちら側へ開かれた窓である
だが個別的霊魂には可能性がある。自由になる可能性がある。
それは思考なく見ることが可能な私なのだ。
分離がない不二一元という実相を見る可能性がある
ただ、いまのところは殆ど機能はしていないが
私達は思考や心・マインドではなく純粋な「見」であり、非個人的な霊魂なのだ。だから「思考なく見よ!」「私なく見よ!」と教えられているのだ。思考が「私だ」だからだ
私達とは現象界と接している窓であり、真の私を映すことが可能な鏡であるのだ。それが個別的霊魂だ。
私達とは個別的霊魂なのだ。
私達は母親が10か月を過ぎて分娩するとき
即ち初めて新生児が息を吸ったときに、この息と共に肉体に入ったのだ。
このDNAによって行為がプログラムされ、カルマとサムスカーラにより決定されている各精妙体が準備されているこの肉体に入ったのだ。
カルマとサムスカーラによって予め行為が予定されている肉体に入ったのだ
肉体や諸体に入ったのが私達・個別的霊魂であり、
肉体や諸体やその記憶の私や「私という観念」は私達である個別的霊魂ではない
そして肉体がもはや生存を維持できなくなり臨終を迎えたとき最後の吐く息と一緒に肉体から離れるのである。(脳死の状態ではシルバーコードは完全には切断されていないのである、心臓の停止が有機体から離れるときである)
私達・個別的霊魂とは生命の一部であり、呼吸と心臓を動かし生命現象を起こしている生命なのだ。脳やマインドとは私達ではなくて生命が私達なのであり、純粋意識の一部なのである。
それにもかかわらず、身体に入ったが故に心との同一化が始まった
どうして私達は思考やマインドといった諸々の私ではないものを自分自身と取り違えてしまうのだろうか?
それは肉体に入ったとき脳幹(松果体)に結合した私達は、各身体の神経に深く浸透し一体化するため脳の状態に左右されてしまうからである。脳がマインドを受信しているが故にマインドと一体化するのであろう
私達・個別的霊魂が一体化した神経を通じて、さらに根源が私達の神経を使って行為されているのだ
根源は私達・個別的霊魂を通じて脳の中枢部にマーヤを投影される、そのマーヤこそ心であり、私達は「私という観念」に深く覆われてしまうのである、といわれている。
従って私達は当然のことマーヤに巻き込まれてしまうのだ。個別的霊魂は自分が行為していると錯覚してしまうのである。
そして二元・分離というマーヤである時間と空間と心とに完全に同一化してしまう。
その輪廻を成立させている神聖なるマーヤの最たるものが
それが各転生に亘りずっと継続している「輪廻している私」・コーザル体であることだろう
これがカルマの担い手、そしてサムスカーラの私であり、過去世の記憶の
集積である。このコーザル体が各輪廻にわたってずっと一緒に私達と
共に旅しているので私達はこのカルマの担い手(自分が行為している
と信じている私)の私という記憶体を自分だと思っているのだ
個別的霊魂の表層部にコーザル体があるからだ
これは神聖なるマーヤなのだ
三界輪廻は神聖なるマーヤなのだ
そしてさらに私達・個別的霊魂を通じて「マインド」が投射されている。
このマインドこそ
私という観念であり、コインの表と裏のように心の両面を形成している。
こころ・マインドとは私という観念そのものなのだ
この私という観念に私達・個別的霊魂が巻き込まれることによって個人・人格
が形成されていく。だがこの個人や人格はサムスカーラによって色濃く方向ずけされており、各転生に於ける記憶によって形成されている私であり、再転生時にはこれら人格の純粋記憶のエッセンスはコーザル体に収納され、転生の際に個別的霊魂と共に指定された肉体に宿るといわれている
(現象的にはこの記憶の私群というものは個別的霊魂がまた物質界に戻るときに数珠の様に引き寄せられる)
何故クリシュナムルティーはあそこまで私達に向かって「思考なく見よ」
「心なく見よ」と言い続けたのか?
彼が「見よ」といった相手とは人格ではなくて、この個別的霊魂に対してなのである。
私達は見ることが不可能なのではなくて、実際は既に見ているのに見ていないと思っているからであり、見ることが可能だからだ
私達の目が分離である私という観念に覆われているから、自他を分離し、時間を過去現在未来に分割しているのだ
ただこの「見ること」とは言葉では非常に簡単単純だが実際は複層的なのである
それは誰が見ているのかということである。それはどの私が見ているのかということなのではないか?大ざっぱに分けて「見ること」には以下の見がある
見ると言うより以下のような「目」があると言える
1:衝動とカルマに突き動かされて全く見ていないのに見ていると思ってい
る状態の「見」、実際には自我さえも生じていないので目は発生してい
ない
2:教育と遺伝と脳の状態に私達が関与することによって生じている個人
人格が見ている「見」、思考の記憶とその反応が見ている目である
行為の後に発生している私という記憶である
3:各転生を継続している「現在のパーソナリティー」という私の本体である
る「私という観念」の目。
魂が「私という観念」に同一化した結果生じているカルマの担い手であり
自分が行為していると肉体と同一化している私という観念の「見」
この1~3の「見」とは結果であり、行為の実感に満たされているので
実際には見ているのではなく見ていると思っているマインドの状態である
思考や心には正しく見ることは出来ない
4:“私という観念が見ている「目」この見こそ分離であり、この「目」とは
見る者と見られるものに分割しており、深層に横たわる恐怖そのもの
である言える”・・ということの理解が生じている「見」、理解の始まり
但しこの理解は概念や観念ではないので久保栄治はまだこの段階で
はない。久保栄治はこの事を知識として知っているので未だ理解ではない
理解は考えや意見や教えや信仰や概念ではなく実相の直覚であるからだ
5:個別的霊魂の内奥の目、それは心ではない「気づき」の「目」
でありクリシュナムルティーなどやラマナ・マハリシによって思考無くして
見なさい、「在りなさい」と言われ続けている目のことである
個別的霊魂が内奥の真の私との繋がりを思い出している段階である
私達(個別的霊魂)は私達ではない私達(マインド)を私達(真我・個別的霊魂の内奥)が投影しているので私達(個別的霊魂)だと錯覚しているのである
私達は私達(マインド・思考の私・記憶の私)ではないのだ
私達は個別的霊魂であり、思考無く、心なく見そして、行為や輪廻している私や諸体に同一化することなく「在」(見)らねばならないのではないか
あるがままをあるがままに思考なく分離なく「正見」することが本当の教育なのだ。自己教育なのだ。
ラマナ・マハリシの言うように肉体も行為も自我も心も神が使っておられるので神に任せて、感謝し私達は思考なく見、そして在るようにすべきなのだ。
私達は身体の活動・行為の目撃者であるべきではないか。自分自身である
マインドの目撃者であるべきではないか・・・