え・・私の自我?!!


この自我とは私の自我だろうか?あなたの自我とはあなたのものなのだろうか?

いやいや自我は私の自我もあなたの自我も全く同じ同一の自我だ。全く同一だ。

ひとつの同じ自我が全人類の脳に棲み着いている(若しくは脳が条件付けられ

ている)からその構造は同じなのだ。

自我の反応とはすべての人で全く同じであるからわたしもあなたも同じように

反応するのだ。この日常の意識とは自我の意識である。

この自我というものは「この私は特別だ!」と、「あなたは自我そのものだ!」

「私は君とは一緒ではない」「私は他人とは異なっている自分だけの特別な意

識なのだ」「私は肉体だ」「私は自我ではない」「私は一番偉いのだ」と叫ぶこと

だろう。

自分が世界で一番でなければ、みんなと異なっていなければ、気が済まないのだ。

「なんで私を崇わないのか!!」と叫ぶのだ。


これがすべての人の自我に共通の同一の特徴だ。

すべての同じ自我が同じように「自分は特別」で、「自分は他人と異なっている」と

「あんたは自我だが私は自我ではない」と同じように決まってそう思うのだ。

だがこの自我とは残念ながら私のものではないし、あなたのものでもない。

自我とは自我には生み出せないし、自我には自我はコントロールできないからだ。

自我とは根源が生みだし、根源がお使いになっておられるからだ。

Aさんの自我がAさんのものではなく、Bさんの自我がBさんのものではないように、

Aさん自身である「統覚機能という個別的霊魂」もAさんのものではなく普遍的な魂

であるのだ。Aさん自身が自分は個別的霊魂だと思う事は残念ながらそれは

間違っている。それは丁度、自我が自分の自我は自分だけのものだと間違った

ように、この自分の霊魂とは自分だけの霊魂だと思う錯誤も個別的霊魂の錯誤

なのだ。この錯誤している個別的霊魂の奥に実在している魂とは行為に関わって

いないことを、行為は神が為していることを知っていると。


自我とは私の自我だろうか? あなたの自我なのであろうか?自我はとても

高等で複雑であり自我にはとても生み出せない。

肉体が最高傑作であるように、同じく自我も最高傑作なのではないか?

自我の構造とはすべての人類が等しく全く同じように「自我=私」と錯覚し実感し

「私は他人とは別だ」「私=肉体だ」「私が行為している」「私が生きている」

「私の人生だ」と思うように仕組まれ、その様に錯覚し、実感するように

仕組まれ、すべての自我がそのように同じ構造で創られている。



Aさんも、Bさんも、Cさんも、そしてこの私に棲み着いている自我も全く同じ同一だ。

その同一の自我は「私は私だ」「私は他人とはちがっている」「何故私を尊敬しな

いのか」「私は世界で一番だ」「わたしは神になりたい」と叫んでいる。自我の意識は

錯小し、錯倒し、限定している様に創られているのだ。この意識がこの現在の

私達の意識だ。


同じように個別的霊魂も、全人類が同じ知覚をしており、自分の魂は個別だと自分

を肉体や自我や頭脳と完全に同一視している。自分を心と完全に同一視している。


話をもとの自我のことに戻そう

私の自我は自分の自我ではなくて、また他人の自我もその他人のものではなくて、

同じ自我だ。全く同一の構造をした全人類が同一のおなじ自我なのである。

「自分は特別である」「自分は最高である」「自分のことを何故敬わないのか」とい

うプライドで成り立っている。それは私達個別的霊魂ではなくて、鏡に貼りつけら

れ与えられているものなのに鏡はその意識を自分の意識だと勘違いしている。


だからこそ自己観察の重要性がある。

自我が自我のことを観察しているのだ。他人の自我を他人だと見ているのは

自我に他ならない。またこの「現在意識である自我の私」のことを自分だと実感

してしまっているのは自我なのではないか

それを見ている私こそ、その他人の自我と全く同一の私・自我なのだ。

非難して憎んでいる他人のことを自我だと見ているこの私そのものが自我だ。

真の私が自我を見たらすべてが神に見えていることだろうからだ。真の私には

自我の本質が見えているからだ。真の私の目には自我とは神が演技していると見

えるのだろう。

自我の本質は神なのだとラーマクリシュナは言われるのだ

自我をどのように観ているのかでそれが自我の目なのか真の私の目なのかが

分かるというものだ。真の私の目には分離がなく対象や客体が存在していない

という。

私ではない他人が見えているその目とは、その他人が行為していると見えている

目であり、それは同時に自分が行為していると実感している目である私即ち

「無明」なのだ。私達のこの現在の意識とは無明の意識なのだ。




その無知無明が悟ろう、良くなりたい、安定したい、光明を得たいと思うのだ。

なぜなら無知自身とは悟りではなく、良いものでもなく、光でもなく、安全でもなく

愛や喜びではないからであり、それらの無知こそそれらになろうとし、それらを

実現しようと模索し願っているところの私であり、自分や他人が行為していると

実感している無明だからだ。真の私であるなら誰も行為していないことを実感し

ているはずだからだ。歓喜が溢れているからだ。


だから思考で以て自我を自我として観察しているのは自我だと言うことを見ること。

そのことを反応なく、巻き込まれることなく見ることによって、自我が透明化して

いくことが大切なのだ。自我には可能性があるのだから自我を見ることは

大切なのだ。

何故なら自我が自我を自己観察するとき、その自我とは自分の自我ではなくて

すべての人類に共通の自我であることを自我が知ること、又、観察しているのは

自我自身であることに気がつくことは

自我が透明化して、自我に覆われている鏡の意識が働き出すという意味合いで

とても大切なことだ

とおもわれるのである。

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