何故、個別的魂は行為していると錯覚してしまうのか?


この葛藤、この恐怖、この不安、この嫉妬、この自尊心、このプライド、この欲望、この色欲、この競争心、このイライラ、この焦燥感、この軽蔑心は、どこから起こってくるのであろうか?

これらの諸々の観念群とは「私と言う観念」から起こっているのではないだろうか?
これらの観念は「私と言う観念」から発生しているのだ。

これは別に私やあなたに限ったことではなく、全ての地球の人類が一様に同じように、全く同一の心理的実感でもって、「私が」「私の」「私のもの」「私の身体」と思っているという事実からも分かるように
全ての人類は「私の」「私が」「私は」という、この観念を抱いており、この観念に私も含めて全員が捕らわれている
この「私と言う観念」が地球人類全員を覆っている。本当は私達は個人ではないのに
個人が生きていると信じ込んでいる。だからこそ私達が抱く全ての観念は「私と言う観念」から起こっているとラマナ・マハリシはいうのである
これらの個人的な自我からの観念だと思われている欲望や、嫉妬や、競争心や、利己心や、利用・利益心や自尊心、プライドなどは決して私やあなたの個人的な自我からではなくて全人類に同じ共通の「私と言う観念」から起こっているというのである。

その「私と言う観念」が全人類の肉体に入って頭脳を占有しているから、全人類が等しく同じように葛藤が、苦しみと悲しが、生じているのではないだろうか
「私が、俺が」「私の、俺の」と叫んでいるのは、私ではなくて、私を覆っている「私と言う観念」なのである。

従って私達はこの「私と言う観念」から起こっているところの、「自分は身体である」という観念を精査することもなく疑いもせずに当然として受け入れてしまっている。

私達地球人類全員が「自分がそのように思っている」と、信じ込んでいるが、その考えや思いは、私のではなく、「私と言う観念」がそう思っているだけなのだ。

なのにどうして自分がそう思っていると思い込むのか?
それは何故だろうか?それは私には実感があり、この五感の感覚がそれを証明しているかのように思えるからだ。その五感という実感故に「私は肉体である」と信じ込んでいるのだが・・・けれどもそれはよく考えればそうではないことは誰にでも分かるというものだ。私達には心臓を動かすことは出来ないからだ。肉体も含めて諸体は神聖なる器だ。私達は肉体ではなくて肉体や精妙体と結合している統覚機能であるから肉体の感覚を自分の知覚と思ってしまうのである。


そのように、この偽りの実感を生み出している五感と同様、私達が日常生活で知覚しているこの恐怖、この不安、怒り、憎しみ、イライラ、利己心など、そしてこの「私は身体である」「私は個人である」という観念は私達ではなくて「私と言う観念」から派生しているのだ。私達は皆、その観念と同一化しているだけなのだ。


では私達は、それらの「私と言う観念」やその働きである思考の動きを、思考を働かせずに見ることが出来るだろうか
私達を取り巻いている自我の観念の大元である「私と言う観念」の底まで「考えることなし」に、それらを正しく見てそれらとともにいることが出来るだろうか

それらについて考えたり考察することは、それについて考えている思考それ自身がそれらのものであるから、考えることは見ることにはならない。考えることとは注意散漫なのである。

それらについて考えたり、それらから逃げたり、それらと一体化したり、それらと同一化したり、それらを概念化したりせずに、思考なく、それらを直視し、愛情を持って、その「私と言う観念」と共に留まることが出来るのだろうか

出来るのだろうかではなくて、それは出来るのだ、ではないだろうか。
内面の葛藤というそれらをなんとかして解消しようとするのではなくて、それらと共に思考なく、一緒にいるということなのである。注意の集中も、思考の働きであり、それは注意の散漫なのだ。注意とは360度であり、それに引き替え集中は注意を限定してしまうのである。

そう言うことであるから、私がもしそれらを無視したり、それらから逃げたとしても、それらは必ず私の後を追ってくるのである、であるから私達はそれらの「私と言う観念」から逃避したりしないことだ。

この思考やプライドという自我の観念から逃避したりせず、一体化したりせず、排斥したりせず、決して思考を使わず考えることなく、それらの観念と共に一緒に留まることである。その観念を思考なく抱きしめることである。

それらの観念を非難したり軽蔑したり判断したりすることはかえってそれらを強め、増大させてしまうのである。であるからそれらを、非難せず、批評せずに、全てを受容しそれらと思考なく共に留まり一緒にいることが出来るかである

私もつい最近までは、そのようなクリシュナムルティーの「思考なくして見ること」は、人類にとって彼は不可能なことを言っているのだと思っていた。けれどももし不可能ならば、何故かれはあそこまで言い続けたのであろうか?それは私達・知覚主体である統覚機能にとって、その思考なく見ることが決して不可能ではないからなのであるときづいた。ただし、それには統覚機能が記憶や思考や感情や観念や肉体や精妙体や対象などと一体化したりせず、自分自身である「無思考」「非対象」の方へとむき直す事が前提条件にはなるのではないだろうか。
いずれにしても私達は、本来の無思考であり、行為していない自分に戻って、「私と言う観念」と向き合い、正見することは可能なのである。

けれどもクリシュナムルティーを学ぶ多くの人たちはそれをすぐに不可能だと言って諦めてしまうのである、もしくは彼の言葉を思考レベルで捉えて、思考で見ている状態であるにもかかわらず「自分は見ている」と一般の平易な解釈にねじ曲げてしまうのである。
がしかし何故私達は多くの聖者達から、同じように、あるがままのそれらを思考なく見るようにと言われ続けているのであろうか?

それは私達とは記憶の連続体でもないし、頭脳が生み出しているエピソード記憶なのではないからだ。たしかに私達のこの現在意識は脳に縛られてはいるが、私達とは脳が生み出した意識なのではない。思考は脳が受け取り統覚機能に伝え、統覚機能から脳を通じて発信されている。現在意識は統覚機能の一部であり、統覚機能の状態が現在意識を限定しているのである。私達とは現にこのようにこの現在に於いて知覚している知覚主体なのである。その統覚機能である主体とは知覚という鏡に写し出されている知覚内容ではなく、知覚している主体なのである。しかし確かに脳内に縛られているし、この現在意識の状態は非常に限定されているので、多くの観念にとりかこまれているけれども、私達の現在意識には可能性があるのである。


だから私達は記憶ではなし、記憶の内容でもないし、記憶主体でもない。脳が生み出している記憶反応とは違うのである。私達は知覚内容を自分だと思ってしまっている、迷っている統覚機能であり個別的魂なのである。


シャンカラは私達は知覚主体ではなくて、その知覚主体を認識している、認識主体だと言われる。この認識主体とは通常の意味での対象を分離して認識している認識主体のことではなくて、純粋な認識主体、所謂、対象や客体化をしない主体、または対象や客体を持たない純粋な主体であり、思考や心の作用であるところの対象化や客体化をすることのない本当の主体のことである。


従って私達統覚機能の内奥では真の私と繋がっているのである。私達というこの個別的霊魂は既に「あるがままを愛の中で観照しているわたし」と繋がっているのだがそれを認識できないでいるだけなのだ。この本当の私は「いまここ」にあって「神の目」として頭脳に関係なく実際に見ておられる。それをこの個人的霊魂が分からないのである。


決して私達は個人ではないし、肉体でもなく、精妙体でもなく、記憶でもなく、その記憶の私でもないのである。だからこそ、思考なく見よと言われ続けているのである。

思考なく見ることが可能だからそう言われ続けているのである。
私達がもし単なる記憶であり脳内の頭脳の記憶やその反応だけに過ぎないのなら、聖賢達によって、思考なく見よと言われつづけられたりはしないであろう。


であるから私達は魂であり、その統覚機能なのだ、だからこそ知覚しているのである。ただ、知覚の中で混在してしまっている知覚対象の肉体や病気や健康や失敗や成功や出来事や行為や、観念や、記憶の反応に過ぎない思考や感情や観念を自分だと誤ってしまっているのである。

私達は思考なくして見る事が出来るのである。もし思考なく、従って心なく見ているのであれば行為から離れていることだろう。そのとき行為していない純粋空間が自分自身であるという真実の感覚が生じているからである。


行為の実感とはまさに自分は肉体であり、若しくは肉体に降り、神経を通じて浸透している個別的魂の錯覚だということである。その実感は個別の名前と形を持っている実体が起こしているものであるからだ。

空間自身は行為はしていないのであるからだ。

行為しているという実感そのものが、「純粋空間そのものである全体なる意識」ではないことを証明しているのである。
もし本来の認識主体である「純粋意識」であるならば、全体そのものであり、時空に縛られない「空間そのものの意識」であるからだ。従ってこの純粋意識であるならば、この行為している実感とは分離個別の意識を伴うので、決して自分は行為しているという感覚はそこには存在していない筈なのである。


であるから個別的魂が「自分は肉体に入って、肉体には神経を通じて浸透している」という実感こそ、純粋意識のわたしではないことを証明している。

ラーマクリシュナなどによってこの個別的自己こそ(この個別的霊魂こそ)神が使用しておられる道具であると言われている。
究極的に見た場合、この個別的霊魂こそ神のマーヤであり、行為を成立させている統覚機能という神の道具なのではないだろうか。


全人類が、全有機体が、全ての個別的魂が、全く同じように同一の私と言う観念に覆われている。

がしかしその観念に覆われている霊魂の私も個人ではなくて、全人類がただ一つの共通の真の私から放射されている普遍的な一つの魂なのである。
全ての霊魂は内奥では一つなのである。
一つの普遍なる意識なのである。
にもかかわらずこの個別的魂が、自分自身を個別的な存在だと信じてしまっている。
自分は名前と形を持っている存在であり、だから従って行為していると思いこんでいるのだ。

本当は私達は普遍的な純粋意識であるとしたら、決して行為には関わっていないことだろう。
行為しているという感覚こそが分離しているマインドの実感だからである。私達の正しい実感とは普遍であり遍在であり全体であり、分離できない純粋空間なのではないだろうか。「あるがままをあるがままに見ている眼」なのではないか、純粋空間の意識が私達の本当の実感だとしたら、そこには行為という分離している感覚がないことだろう。

故に老子は純粋空間そのものであるから、私は行為していないと言ったのである。

だとしたらこの行為とはどこから起こっているのであろうか、それは神のマーヤからであり、真の私である純粋空間から起こっている幻想・マーヤなのであるとアドヴァイタの先達は言われる。
純粋意識そのものから見た場合、行為はなく従ってマーヤもないと言うことなのであろうか
だから実際にはアートマンはブラフマンなのであると言われるのである。


本当は個別的魂というのは全体が一つの魂であり決して分離しておらず一つの魂なのであると
それを個別だと信じているのはこの魂を覆っている「私と言う観念」を自分だと、この個別的霊魂が錯覚しているからなのである。
私達は個別的魂のように見えているが、決して分離しておらず、私達のその奥は全体で一つの唯一の純粋なる意識そのものなのである。普遍なる意識なのであると言われる。


私達・個別的霊魂は脳の仕組みから発生しているそれらの記憶群や記憶が生み出している意識的自己と云われるエピソード記憶なるものを自分と錯覚しているが故に、魂の統覚機能にて知覚されている観念群と自分を同一化してしまい、それらの観念群を正しく思考なく見ることが可能なのにもかかわらず、その記憶の自己と魂の自己を同一化して、「私はそれらの思考を思考なく見ることなどは出来ない」と思っているのである。

私達は思考ではないのである。私達は脳内で知覚されている記憶・具象・抽象・形象思考・感情・欲望・観念・行為ではなく、それらを知覚している「脳ではない主体」であるのだ。ただ現在のところは私と言う観念に覆われているので、全てを分離した対象として見てしまっているだけなのだ。正しく「考えることなしに見ること」が困難になっているだけだ。

そしてその知覚される記憶の私のことを、その「記憶の私としての自己感覚」があるのでそれを知覚している統覚機能の私がそれを自分だと誤ってしまうのである。

私達は(脳ではない統覚機能を持つ個別的霊魂は)、純粋意識と直結しているのであり、思考なく見ることが可能なのである。

ただ五感や思考や記憶や分離知覚などを脳を通じて、実際に実感し体感しているのを知覚するので、記憶と記憶の反応のことを自分だと思ってしまい「思考なく見ること」は出来ないと信じ込んでいるだけなのである。

もし私達が単なる記憶であるなら、どうしてクリシュナムルティーやラーマクリシュナやラマナ・マハリシなどの聖賢達は私達に対してあそこまで「考えなしに見なさい」と言い続けたのであろうか

私達には可能なのである、ただ難しいだけなのである
だが、私達が繋がっている「純粋主体」はハートにあって「愛の中で全てを観照している」のであり、この既に見続けている「真の私」こそ本当の主体なのに、個別的霊魂である統覚機能の私はそのわたし自身に気がついていないだけなのである。

この点を真剣に考えた場合
私達は真の私に直結している真の私の一部であり、思考ではなく、けっして「私と言う観念」ではないのである。とおもわれるのだ。私達は内奥では真の私であるところの純粋空間である「純粋意識」なのである。


そのことを夢と熟睡の観点から見てみよう
夢見とはレム睡眠のことであり、この夢見時では主に脳の反応や記憶の反応が知覚される。というのも統覚機能が脳と結びついているので、その統覚機能の状態が現在意識となり、またより高次の夢の中では、低次アストラル界での統覚機能の経験が知覚され、かつ統覚機能はそれらの記憶と一体化して、一喜一憂してしまう結果となる。この夢見時の意識では魂の内奥からの純粋意識は殆ど意識化されないで「自分とは記憶の反応である意識的自己だ」と思ってしまうのである。それはひとえに統覚機能の状態が魂の内奥と結ばれているパイプの管が詰まっており、純粋意識が現在意識である統覚機能に顕在化しないからである。

熟睡時には統覚機能は魂と共に一時的に現象界の高級次元へと戻り、脳から離れているのが、脳に戻ったときに、その熟睡時の体験が、脳と結びついた統覚機能には殆ど魂側からの高級諸界の意識を現在意識化できないのである。
それは統覚機能の状態によるのである。統覚機能の状態というものが現在意識の状態であり、脳に結びついたときには脳の条件付けにも左右されてしまうのである。観念から自由ではないのである。マインドから解放されていないからである。

日中の覚醒時に於いてその高次の体験を意識化できるためには統覚機能と魂のパイプが透明化されている必要がある。
もし透明化されているならその魂の内奥から脳を変革し、熟睡時でも日中の覚醒時でも至高の意識が輝くことだろう
だが通常の私達の統覚機能の現状では、この魂の非思考の体験を現在意識化することが出来ないのである
それは各体を繋いでいるアンテナでもあるチャクラの状態が詰まっている状態であり、純粋意識が意識化されていないからであるとも教えられている。

現在意識の状態とは、それはひとえに統覚機能のチャクラの状態によっているのである。だからこそ聖者は自己の内奥を観照しなさいと統覚機能に言われるのである。

そしてこの錯覚している統覚機能は肉体に起こっている行為を、自分が精妙なる諸体を通じて脳に縛られているが故に、そしてまたそれら肉体と精妙体が共通して行為に関与しているが為に、自分が行為していると錯覚してしまうのである。

ラーマクリシュナが言うように
「あのお方(神)が純粋意識によってさせるのでなければ人はなにも出来ないのです。あのお方が瞑想をさせることによって人は瞑想をすることが出来るのです」であるにも拘わらず

統覚機能である個別的魂は、エーテル体や高級な精妙体が一緒に行為に参画しているのをみて、自分が行為していると錯覚してしまうのである。
なぜなら統覚機能である個別的魂は各体の神経を通じて、自分の感覚が身体の隅々まで行き渡る知覚や感覚があるので、余計に自分が行為している、自分が自由意志で行為していると思い込んでしまい、行為の結果であるカルマを自らが引き受けてしまうのであるからだ。



しかし行為をしているのは個別的魂でもないし、その機能である統覚機能でもない。行為とは純粋意識が個別的霊魂の統覚機能の自由意志という錯覚を用いて(統覚機能を通じて)行為しておられるのであると教えられている。


その統覚機能の「自分が自由意志で行為している」という錯覚を起こさしめているのは純粋意識であり、この純粋意識が肉体やエーテル複体やサイコ・ノエティック体をそして個別的魂を用いて行為しているのである。

この純粋意識が魂の自由意志を用いて、自分が行為しているという「自由意志」の実感と確信を生じさしめて、自分が行為し、善悪の行為をしていると、個別的魂に錯覚せしめた結果、責任が生じ、カルマが生じ輪廻が継続しているのである。
それは、肉体を用い、精妙体を用いエーテル複体を用いそして肉体の行為を、起こさしめ、そこに統覚機能である個別的魂が結合しているからである。そのようにして個別的魂は行為を自分がしていると思うが故にカルマを引き受けてしまうのである。そして個別的霊魂は輪廻に巻き込まれてしまう。

統覚機能である個別的霊魂に、「自分が行為がしているという実感」を起こさしめているのは純粋意識である。
従って、自分が行為しているという実感を一番抱いているのは、この統覚機能であり
魂なのである。というのも神経を通じて肉体と結びついているからである。それゆえにカルマが生じているのである

この行為感覚という錯覚は
魂が錯覚し、幻影に捕らわれているのであって、単なる記憶の反応である人格や、肉体や諸体の記憶の私の自己意識などではない。

実際には、統覚機能や肉体や霊的諸体を通じて行為を起こしているのは純粋意識であり、個別的な霊魂や統覚機能ではないということだ。

個別的な霊魂や統覚機能は、この錯覚を起こすように仕組まれている肉体や諸体と結合しているのは何故なのだろうか?

なぜならこの魂や統覚機能も、肉体や諸体と同じように聖なる根源のお使いになっておられる現象界を構成している至高なる媒体なのであるから
聖なるマーヤの一部なのである。

と教えられているのである





戻る