私が考えている??!


私が考えているのだろうか?

私が苦しんでいるのだろうか?

私が知覚しているのだろうか?

それとも私という実感即ちその考え、その知覚、その願い、その想いが脳に起こっており

その特定の想い・知覚というもの自身が私という観念のもの(私という観念のシステム

の領域)なので

私が思っている、私が知覚している・・・という私も、その想いも、知覚も一緒に起こって

いるのではないだろうか

さも私が存在していてその私が考えているような錯覚がここで起こっているのではないか


私が考えているのではない!

考えている私も、その考えも起こっているのだ!

その考えも、考えている私も同一のもので

それらがこの個体の脳に起こっているのだ

考えがやってきて、その考えがこの特定の脳に起こっているのである


観察者も観察されるものも同一であり

それらは一つのものであり、ともに起こっているのである

考えも、それを考えている私も同時に起こっているのであり、

決して、私が感じ、私が考え、私が知覚しているのではない

マーヤである神聖なる錯覚の知覚が起こっているのである。



脳に起こっているその想いが、即ち私という実感そのものなのである

その思いの正体は「私という観念」でありこころからできている

それ故に、決してその想いを思うような特定の私・個人はいないのだ



私が思っている、私が苦しみ、私が悲しみ、私が思考しているのではない!

想い、苦しみ、悲しみ、思考がこの特定の個体に起こっているのである。

それと同時にそれで苦しむ私も共に起こっているのである。それは同じものだ。



その苦しみ、悲しみ、欲望とは起こっており、

その苦しみ、欲望それ自体が「私という観念の実感」の中身なのではないか

知覚している私、認識している私、見ている私とは虚構なのである。

その虚構の私には知覚することも認識することも見ることも出来ないからだ


毎回毎回想いや感情や思考が脳にやってきており

そのやってきている(脳に起こっている)想いや感情や思考それ自身が私という

観念なのである。


私達が考えているのではない、思っているのではない、欲しているのではない

その私達自身こそが脳にやってきている、起こっている「観念」自体なのである。


その脳に起こっている考え、想い、欲望、その知覚作用そのものが私という虚構であり

それは神聖なるマーヤであるといえる

想いが起こる度に毎回毎回私というものが形成され、記録され、その私という記憶が

諸体の脳に蓄積されていくのである

実際には起こっている思考や感情や想いと同じように私達も起こっているのである


だから本当は誰も個人はいないのであり

各体の脳に思考と感情と欲望と想いと知覚が起こっているだけなのである・・・・




・・・という「考え」がこの特定の脳(久保栄治)に去来している

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