何故私は眠りに陥るのか



・・・この私・この自己とは主体ではない。・・・

・・これが近頃感じている事柄である

この自己意識とは主体ではない。自己意識の奥にマインドではない主体が存在している。

この自己意識・心とは主体が用いている聖なる道具である。根源が道具である心を用いておられる

のである。

根源がこのすべての自己意識を用いて現象界を生きておられるのである。

主体とは根源であり「見るものは見られるものである」と直視している普遍なる純粋意識のことである

のであるのならその純粋意識とは世界は私だと実感している筈だ。

その普遍なる純粋意識がこの私達の自己意識(私という観念)をあらしめ支えているのではないか。


純粋意識があるゆえにこの分離した私という観念・心が成り立っているのであり、心の奥に

心を超えた純粋意識があるのだ。と推測している。

それは即ち熟睡と夢見と覚醒の基底(奥底)に心ではない気づき・純粋意識があるのだ。と

気づきがもし基底に存在していなかったのなら心そのものもありえないからなのだ。

・・・等々とこのことをいろいろと思考している私とは窓でありスクリーンである観照者(魂)からの

投射である現在のパーソナリティーなのである。もし魂であるなら思考はないことだからだ。

この私達の個別の自己意識とは所謂個別的霊魂といわれているものがあるが故にあることが

出来ている意識であるからだ。だが個別的霊魂の奥は分離はなく従って心もないことだろう。



T:スクリーン(鏡)自身が観照者であり気づきであり、又は現象界に接している窓自体である。とすると

U:スクリーンの状態、若しくは窓にあるガラスの状態(神道的には鏡の状態)が現在のパーソナリ

  ティーであり観察者であるといえる。この状態を指して一般的に個別的霊魂の状態といわれたりし

  ている。

  このことを霊的にいうと普遍的霊魂である窓から投射されている個別的霊魂が現在のパー

  ソナリティーだということもいえる。このことをさらに霊的な観点から身体に置き換えれば個別の
 
  臓器を構成している特定の細胞が現在のパーソナリティー若しくは個別的霊魂とも言えようか。

  それは「次元を超えている無限大でもある窓のあちら」における窓ガラスの「枠」のようなものとも

  言える。

  だが通常はその窓ガラスの個別的霊魂の意識とは滅多に現在意識面には浮上してこない

  通常に意識され知覚されている私とは

V:スクリーンに映し出されている心、若しくは窓又は鏡を覆っているものである。それはマインド・

  心である記憶即ち私という観念であり、その記憶だ。それこそがスクリーンに投影されている映

  像の私だ。

  その私という観念こそが個人の私であり、現在意識の殆どを占めている心である。それは非常に

  功利的で利己的な意識だ。自分の悟りを求めてすぐそのための方法を聞き出す・・その本体である。
 
  その心・マインドが通常の意識し意識されている私の意識の中身であるといえようか。それは

  二元分離の心のことだ。


ここで本題の何故私達は眠ってしまうのかということであるけれど、眠ってしまうこの私とは誰か?

日常の意識、この熟睡・夢見・覚醒時の意識の殆どはこの「私という観念の記憶の意識」であり、

脳と共に熟睡してしまうのが現在のパーソナリティーである。即ち脳と結合している個別的霊魂だか

らなのだ。脳のある部位(前頭前野)と結合しているので眠ってしまうのである。


というのも通常の人類に於いては、この個別的霊魂の「脳と繋がっているパイプ」は充分に活動し

ているのに、個別的霊魂自身の奥にある鏡自体、スクリーン自体と繋がっている側のパイプが塞

がっているので、脳が眠るときには一緒に眠ってしまうのである。

この私という現在のパーソナリティーは一方では「普遍的な魂」の窓口であるところの松果体から

ハートの内奥に繋がっているのになのだ、しかし現在ではただそのパイプが詰まっているのだ。

だから脳と一体化してしまって、一方側の熟睡している脳しか知覚できないのである。

とおもわれるのだ。


この分離している個人的自己意識、鏡である意識の座に投影されている私という観念・・・その観

念の中身である恐怖、不安、自尊心、利己心、プライドなどなど・・・その肉体を自分だと思ってい

る「私という観念の記憶」が「私は○○だ」「貴方は○○」という一定の名前を親から名付けられた

肉体と同一化している個人であり、私という観念の記憶であるものだ。


その記憶の私こそが、自分が行為している、自分が考えている、自分が記憶していると錯覚し実感して

いる私である。このわたしがこうして書いている私であり行為の実感を持つ私なので、この私にとって

行為は起きているという言葉は真実ではあっても妥当性がなく、従って正しく行為することが求められる

のである


このわたしこそカルマの結果である私、そしてカルマに巻き込まれてカルマに苦しんでいる私だ

そして脳に結合しているが故に、さらにこのカルマに苦しむ記憶の私を私と錯覚したのが個別的

霊魂の私である。


そしてその

T:スクリーン(気づき・汚れなき鏡・観照者・普遍的意識の一部)と

U:スクリーンの状態若しくはスクリーンからの投射でもある個別的霊魂(現在のパーソナリティー)と

V:スクリーンを覆っている(スクリーンに映写されている)私である、私という観念(心・マインド)とその

  記憶(思考)を



思考なく観照し見ている主体こそ

気づきであり、真の私、本来の面目といわれている純粋意識である。と思われる。

その意識は次元の違う純粋空間の意識、普遍なるすべてをあらしめている純粋精神である。と。




現在の個別の私達であり(私という観念である)この分離している意識とは主体ではなく主体

を覆っているマインド・分離意識のことである。即ち窓を覆っている心という個別の私意識なのである。

そしてこの心・私という観念が脳と神経組織に浸透しているので、同じように松果体から脳に

投射している現在のパーソナリティーが肉体の知覚や私という観念からの知覚を自分の知覚と

錯覚するのである。それが故に肉体の行為を自分の行為と錯覚するのだ。この錯覚は行為の後

に生じているにもかかわらずマーヤによって逆転した時間を知覚してしまっていると言われている。


T:主体(観照者)が

U:投射している意識とは統覚機能という個別的霊魂のことであり、現在のパーソナリティーのこと

  である。それは即ち「私という観念、個我であり、二元分離している心」に覆われている窓のガラ

  スのことである、(神道的に言えば鏡の表面部分でもある)。

V:窓を覆っている「私という観念」(肉体を自分だと思っている記憶の私)


のことを自己と思い違いしているである。

心・思考・知識とは私という観念であり個別的霊魂=統覚機能を覆ってるマインドなのではないか。

その心こそ

神聖なる肉体や素晴らしい諸体を使って行為を為され出来事を起こさしめている根源に

よって用いられ、使われているものである。・・・といわれている。


その私という観念の私が「見ている出来事とは根源によって起こっている」にもかかわらず

「私が見ている」「私が考えている」「私が知覚している」「私のものだ」「私は私だ」

「私は主体だ」と条件付けられているのでその様に知覚を解釈し錯覚してしまっている。

しかしこの錯覚である私も含めて神聖なるマーヤであるからだ。


この神聖なるマーヤの中で行為は起こり、個人も生まれ死んでいる、そして出来事は去来している。

すべては内部も含めて3Dの映像であり、起こりそして終熄していく。これをもし正しく見る事が起こ

るのであるなら、これを見ているものは次元を超えている観照者である。



自分が行為していないのならばカルマもなく、従って行為の結果である輪廻もない。

自分は行為していないのだと、知識や教えや考えではない本当の理解が起こったときカルマから

離れている(個別的霊魂が魂の内奥に帰還したのである)

行為の主体とは根源であったと腹の底の底から感謝と喜びが沸き上がるとき

そこにはもはや私はなく、従って行為の結果であるカルマもないと

何生にも渉って悩まし続けてきた「私」が消え去ったのだ。「私」がいないときそこにあるがままだけ

があることだろう


「私という観念」であるマインドもそしてその記憶である私・自我も、自分だと主張し脳に浸透して

いるがゆえに脳の知覚を自分の知覚と間違えていたのだ。この「私」が消え去ったのである。


現在の状態では脳の眠りと一体化して眠ってしまっているのである。そのようにして、私ではない

「私という観念」を自分だと錯覚した現在のパーソナリティー(個別的霊魂)は転生に巻き込まれ

てきたのだ。と思われるのだ。



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