受け入れること


受け入れるとは?受容するとはどういうことなのだろうか?

では受け入れないこと、受容しないということとはなんなのであろうか?


それは戦うこと、変えようとすること、他のものになろうとすること、改善しようとす

ること、逃避することだ。これらはまさしく「条件付けられている記憶である私たち」

そのものの姿だ。

「私という観念」が脳に浸透した結果発生している思考、その私という観念からの二次

想念の記憶がおこしている条件反応のことである。行為していると錯覚している「私という観念」

の反応のことだ


その記憶の私は「見て」いないのに「見ている」つもりになっている。「気づき」ではない

のに「気づき」のつもりになっている。「気づき」のことは全く知らず理解もないのに、

さも分かった振りをし、気づきは起こってもおらず、その理解もないのに、条件付けられ

ている記憶という自分からその未知なる状態のことを推測してさも知っているつもりに

なり「私は肉体ではない」「私は思考ではない」と思考が思考している

・・・それがこの現段階のわたしの実態だ・・



自分を非難し、自分をコントロールしようとし、よくなろうとし、さらには自分を偽って

気づきではないのに「私は思考ではない」と思考が自己欺瞞状態に陥っているのである。


自分を対象として思考で観察しているだけなのに「見ている」つもりになっている。

自分が自我そのものなのに、あたかもそれを見ている観照者であるかのように、自分の

ことを「自我」と名前を付けてしまい、自分・自我を理解したつもりになっている。

この状態とはまさしく記憶が起こしている「自己欺瞞」の状態だ・・・その線上にこの現

在の私はいる。

この現在の私とは個人だと思っている「私という観念・マインド」のことであって

地球人類すべての個人において同様に肉体を自分だと思っている同一で一つの自我のことだ。

この「私という観念マインド」が全人類の脳と神経に浸透して、起こっている行為に

対して「自分が行為している」と錯覚するように根源が引き起こされている



その自分をコントロールしようとし、非難し、観察し、良くなろうとし、自分と戦っ

ているもの(自分)こそが、そのコントロールされ、非難され、観察され、良くなろう

として戦っている相手(自分)なのだとクリシュナムルティーは言われるのだ


何故ならそれらは共にマインドであるからだと

・・・・だがこの観点は教えによって、観念で理解できることではなくて全身でもって

身体で分からなくては意味をなさない。頭の理解では単なる観念であり伝達可能な言葉の

情報の領域だからだ・・・この理解とは教えや言葉ではなくて実感なのであり各種の精妙

身体を伴うことがらなのである。だからこの精妙身体の状態こそが個人個人の脳に入って

マインド(自我)の状態でもあるということだろうか


それゆえに、この自分とはマインドであるからこそ自分自らをコントロールしようとし、

自分を非難し、自分を対象として思考でもって観察し、自己を見ていると錯覚するのだ。

さらに、良くなろうとし、到ろうとし、そして挙げ句の果てに自分を偽るのだ。「私は

思考ではない」と、肉体の五感しかないのに「私は肉体ではない」と偽るのだ・・これ

がまさしく思考の特徴ではないか。


それは思考が思考を見ている状態であり、思考の自分が思考である自分を対象として

分離して見ているのであり、心が心を見ているのである。即ち見ていない状態なのである。

思考の(マインドの)観念がぐるぐると廻っているだけであるからだ。

この動きこそ心の本性である分離の働きそのものなのではないか?

その心こそが私という自分であり、脳を覆っている私という観念であり、この書いてい

る私に他ならない。


心とは恐怖であり、分離して観察している観察者と観察されるものの両者であると言わ

れている。

だから恐れを知覚している私とはその分離して観察しているマインドの私のことであり、

その観察している私とは「恐れ」なのだと言われる。

だからその恐れを知覚している意識とは決して気づきではないことだろう。


恐怖を知覚している私とはラマナ・マハリシ風に言えば「私という観念」から発生している

想念でありその記憶のことであり記憶の中身のことである。

だがこのことの理解は教えや知識や概念であってはならない

このことを言葉で記憶しているに過ぎないのに知ったつもりになる・・・

その思考による自己欺瞞がある限りは、即ち恐怖がある限りは決して気づきが見ている

ことではないことだろう。



だからこそ思考と同一化しないで思考を「見る」ことをクリシュナムルティーは

強調されるのだ。・・「見ること」これは起こることであると

そのために「見ていない」思考は思考なく「見よう」とし、「見ている」気づきに焦点を

充てるべきなのであると


戦わないこと、非難しないこと、変えようとしないこと、逃避しないこと、結果を求め

ないこと、コントロールしないこと、到ろうとしたり、なにかになろうとしないこと、

批評し判断したり、同一化したりしないこと、思考でもって対象として観察したりしな

いこと。・・・これらは起こる事柄だ、これらは起こる領域であり既知である思考の

そしてその思考の記憶の領域の「観念のことがら」ではない。観念は反応だからだ


恐れおののいているのはこの私だが、この私を非難することは私から逃げることだろう。

この「思考なく見ること」がけっしてない「思考である私」がこの私なのだ。恐怖を見

ている私なのだ。即ち恐怖なのだ。恐怖がマインドだからだ。

この私こそが「私という観念」である現在の自己意識なのだ。なのに「私は思考では

ない」「私は肉体ではない」とその肉体に同一化している「私という観念」の記憶である

思考は言うのだ



それゆえにこのマインドの自分自身を全的に受け入れ自分のすべてを受容することだ。

思考が思考を受け入れるのだ、心が心を受け入れるのだ。記憶が記憶を受け入れるのだ。

自我が自我を受け入れるのだ、だが果たしてこの「受容すること」それをこの思考であり

記憶である私に出来るのだろうか?それもまた起こる事柄なのではないか?



故にこの「受容し受け入れない私」を「受容しない私」が受け入れようとワークすることだ。

あるがままの自分をあるがままに受け入れようとすることがワークではないか。

それを可能とか不可能とか言うこと自体が既に思考の本性である罠にはまっていることだ

できるとか、できないとかに焦点を向けるのではなく、するかしないかの問題なのである。



無条件にあるがままの自分をきつく抱きしめること、自我が自身である自我を抱きしめる事

もしそれをすることが本当に起これば、そのときそこには、気づきが生まれ、もはや観察者と観察

されるものの分離はない、そして、それがクリシュナムルティーのいう思考なくあるが

ままをあるがままに見ることになるのだと言うことなのであろうか。


それゆえにあるがままをあるがままに

抱きしめる事、感じきること、受け入れきること、感謝しきること

これが神聖なる事でなくてなんだろうか、

これは自我にとっては「為すこと」ではなく、自我にとっては起こる事であるのと。



「受容すること」は起こること・・これが有り難いことでなくて何だろうか。

非難し、避けて、恐れていたものとは自分だったと、そしてその反応している自我さえも

根源の道具であったと・・・すべての主体は根源であったと・・・その中に入っていくこと

が起こるとき


そのとき、そこにクリシュナムルティー的に言えば「虚偽の中に真理」が顕現し

禅的に言えば「本来の自己の面目」(気づき)がそっと姿を現しているのだ

と教えられていることなのであろうか。



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