自我を見ているのはだれか?
自我を内部と外部において観察し知覚しているのは自我であることを、又
恐怖を恐怖として知覚しているのは恐怖であるということを、
恐怖であり自我であるこの私が自我や恐怖を「観察している私」であることを
理論ではなく、教えでもなく、知識でもなく、心の底から実感しているとき
そこに「喜びと平安と感謝とすべては一つ」という気づきの状態が生まれているのだと言われている。
この気づきとは純粋化したマインドのことであると。
このとき「私は肉体ではない」純粋意識が「純粋化した気づき」の中に沈黙として静かに顕現していることだろうといわれている。
では
恐怖を知覚し観察しているのは一体誰なのか?
また対象として自我(自他の中)を観察しているのは誰か?
思考を思考し、思考を知覚し、意識し、観察しているのは誰か?
心を知覚し、心を意識し、心を感じているのは誰か?
恐怖を観察し恐怖を無くそう、平安でありたいと願っているのは誰か?
そうすることで恐怖から逃避しようとしているのは誰か?
自他の自我を知覚し観察し、自分は良くなりたい浄化されたい、自我から解放されたいと願っているのは誰か?
自我を知覚し、自我を意識し、自我という対象を見て、自我を改善しようとしているその私こそがその自我なのではないか?
自我であるからこそ自我を意識し知覚しているのではないだろうか?
(もし「本来の面目の私」であるならすべてに仏性を発見しているから、自我というものは真我であることが体感されていると言われているし、その仏性の私の目には自我とは「神がかぶっている仮面」だと見えているといわれているからだ)
樹木や食器やパソコンを分離せず「それ自体」ではなく対象として見ているものとは誰なのか?それはそれ自身である心マインドなのではないか?
恐怖や自我や思考を、「分離なくそれ自体」として見ずそれらを対象として見ているのは誰なのか?
それはそれ自身である心マインドなのではないか?マインドが自身を分離して自身を対象化しているのである。
果たして「対象として見ているもの」とはそれ自体なのではないか?
マインド心が自らを分離し対象化しているのである。
思考を思考として思考しているのは思考であるのだ
自我を自我として知覚しているのは自我だ
恐怖に恐怖しているのは恐怖なのだ
樹木や食器やパソコンを対象として見ているものはその樹木であり食器でありパソコンと分離していないそれ自体なのに
どうしてそれ自体としてみないのか?見る者と見られるものに分離してしまうのは誰なのか?
恐怖や自我や思考を対象として見ているものとはその恐怖であり自我であり
思考なのではないか?
ならば、なぜそれらを対象ではなくてそれ自体として、それらを自分自身として感じ、知覚しないのか?何故あるがままの非分離のそれ自体ではなく、
対象として分離し、知覚しようとするのか?
何故見る者と見られるものに分離してしまうのか?
これはマインドがマインドに質問しているのである。
もし
恐怖が恐怖を観察しているのであり、恐怖を知覚し意識しているのは恐怖であることを、恐怖が恐怖から解放されたいと思っているのだ・・・というあるがままを直視している事が知識や教えからではなく、その気づきが本当に生まれたとき(マインドが純粋化されたとき)
そこには
果たして恐怖を観察する者も観察される恐怖も残っているのだろうか?
観察者や観察されるものという分離は残っているのだろうか?
そこにはあるがままがあるがままにあるのではないか?
そのあるがままとはクリシュナムルティー達によれば
平安であり、神聖なる状態であり、それは既知なるものにとっては「未知
なる愛」であり、心の根源であり、心を生じさせている純粋意識が気づきに顕現しているといわれる
「自我を自我として知覚し意識し観察して見ているのは自我であること」
を正見することが理論ではなく、本当に生まれたとき
またそれを教えや理論ではなく
「思考なく思考をみること、観察者を見ているのはその観察者である」
ことを直視している状態が顕現しているとき
そこには自我もなく、思考もなく、分離している観察者もいないことだろうと
そこには見る者と見られるものの分離のない「本来の面目」が顕現してい
ることだろうと
けれども、それを思考したりすることや推測することや思い浮かべることも
誤解でしかないということをマインドが正しく理解し
これらマインドの状態をマインドが受容する(受け入れる)ことがマインドの
正しいあり方なのだということをマインドが了解するとき
マインドに何が起こるのだろうか?
マインド=心=分離=自我は純粋意識から生まれていることがらであり
この幻想は神聖なる幻想であるといわれている。
というのも純粋意識がマインドを使って現象次元を投影しているからであると。
既知なるものは未知なるものが顕現しているのであるからだと。