すべては根源
私・アドヴァイタを学ぶものは
以下のようにこの教えを考えている
根源が個別的霊魂を通じて物語を投影されている。
そして個別的霊魂を通じて根源が認識されている。
根源は根源が使用されている肉体(や諸体)にこの個別的霊魂を浸透させ
この個別的霊魂に「根源が起こしている肉体の行為」を「自分が行為している」
との錯覚を起こさしめている。この錯覚は神聖なるものである。
個別的霊魂とは個別ではなくて全体であるにもかかわらず
この全体であるものに錯覚を自ら起こさしめているのである。
それゆえに、この錯覚とは聖なる錯覚である。
実際には一者しかいないからである。
実際にはアートマンはブラフマンなのではないか。
起きている思考を「自分が思考している」
起こっている頭脳の記憶の反応を「自分の記憶の反応である」
起こっている記憶である人格のことを「自分自身だ」
「私だという自己意識を持っている自我」をして私だという
錯覚を個別的霊魂に起こさしめているのである。
私だと言えるのは個別的霊魂を通じて心を投影されている真の私しかいないのに
そしてこの個別的霊魂が「私の自由意志」と思い込んでいるその自由意志とは
根源の自由意志に他ならない。
根源が個別的霊魂の「自由意志?」というものを通じて
個別的霊魂の投射である自我に意識及び意志を起こさせ
自分が行為をしている、
自分が思考している、
自分が感じている、
自分が知覚している、
自分が欲望している
自分は私である
という実感・錯覚を起こさしめているのではないか
そして
根源は行為を通じて出来事と物語を起こさせ
マーヤを起こさしめている
わたしもあなたも
すべての出来事も
すべての自他の自我も
すべての行為も
すべて根源が直接に起こしておられる神聖なることでなくて何であろうか
「到ること」「実現すること」「行為すること」とは根源が起こされていることであり
記憶の私や、根源の窓である個別的霊魂の私の範疇にはない
すべての出来事とは神聖なる出来事でなくてなんであろうか
すべての自我とは神聖なる自我でなくてなんであろうか
すべての行為とは神聖なる行為でなくてなんであろうか
すべての「なることbecoming」とは神聖なる出来事でなくて何であろうか
すべての思考と感情は神聖なる事でなくて何であろうか
すべての次元の物質は神聖なる物質でなくて何であろうか
すべての行為とは根源が行為している行為であるならば
行為は根源の行為であり、演技であり、善悪にかかわらず神聖である。
起こっていることは自我や思考や意識の持っている善悪の判断の範疇を
超えている
「Becomingなること」は既に在るがゆえに起こっている幻覚マーヤである
といえる。
根源は個別的霊魂を使って
個別的霊魂に
自分が行為し
自分が善であり
相手が悪であると
敵と味方があるという錯覚を起こさしめているのである。
それゆえに
この錯覚であるマーヤも神聖なるものでなくて
一体なんであろうか
時間や空間は敵ではなくて神聖なるマーヤではないか
すべての起こっていることは根源から起こっていることであり
根源から起こらない限り、それは起こらないことだろう
すべての出来事とは根源が為さっている神聖なる出来事である。
すべての自我は、自他に同一の普遍の純粋精神が演じておられる神聖なる
ことである。
すべての善悪?!の行為とはただ一つの神が演じておられる神聖なる行為
である。
これらのことがらは肉体や知覚や思考のシステムを詳しく見れば
自明のことであると思われる。
最新の大脳生理学が明らかにしていることと同じである。
根源の結果である私という観念「心・自我」には
心も自我も生み出せず
その心も自我も、心や自我のものではないからである
心や自我はマーヤのものであり
マーヤは神からである。
従って「なろうとすること」「到達しよう」「実現しよう」とは
マーヤの結果である自我の想念であり
既に「在る」「到達している」「実現している」ことが実在しているが
ゆえに、それらの錯誤も起こっていることが出来るのである。
心と自我を使って現象界を
かくの如くにあらしめておられるのは
神聖なる純粋精神である。と
自分が行為しているという錯覚を起こさしめているのは純粋精神である
そして、その行為を為しているのも純粋精神である
ならば、何故完全完璧でないわけがあるのだろうか?
この思考や心にとって完全完璧ではないように見えているだけで
思考や心が働かず、真実が見えているのならば
この現象界も本当は完全完璧なのではないか?
神が作ったのであるからこの現象界も完全完璧なのである
まして、すべての行為は神が為しているのであれば行為も完全なのである
それがそう見えないのは、こちら側の目に問題があるのだ、真実が見えないように
無明が目を覆い神が行為しているのが見えないのである。
すべての起きている出来事は神が起こしている出来事なので神聖なる出来事なのである。それ故に何もすることもなく、何に到ることもなく、何もしていない。いかなる事象も完全である。
すべての行為は神が行為しているが故に完全なのである。
すべての自我は神が使っているが故に完璧である。
すべての現象は神の中にあり、何も足すこともなく何も引くこともない。
すべての次元の質料も物質も、すべての思考もすべての意識も神の中にあり神聖・完全である。神の中になければ全宇宙は一瞬も存在していないからである。
すべてはこれで良いのだ。すべてはこれで良かったのだ。すべてが完全完璧なのだ。
迷うことも、悟ることも、生じることも、滅することも、ホワイトホールもブラックホ
ールも、成長も、退化も、善も悪も、良きことも悪きことも、分離二元も一元も
すべては神の中にある神聖なる出来事であり有り難い。
すべての
現象界はすべてがリンクしており、すべてが網の目のように繋がって一つのものである
全宇宙がひとつで有機的に統一体として機能しているのである。
完全完璧でなく区別や分離がありバラバラに見えているのはマーヤがみせている幻覚なのである。
出来事という物語を自他の自我を使って演じておられるのは
神聖なる御方である、純粋精神である。ただ一つの普遍の意識である。
すべての行為は神が為している、と
善悪
二元を超えて
働いている神の叡智と愛を
現象界に見ることが出来る
すべてのものは、もし神の叡智と愛がなければ一瞬もあることは出来ない事だろう
見ることが出来るのも
見ることが出来ないのも
同じ根源の神聖なる出来事に他ならないのではないか
行為がそうであるように
到ることも到らないことも
良いことも良くないことも
起こる事も起こらないことも
同じ唯一の根源の聖なる出来事に他ならない。
全託することも、全託しないことも、それは起こっていること
私も君も、それはおなじ唯一なる一つのもの
この自我もあの自我も、それは「私という観念」である一つのものの側面
あらゆる個別的霊魂もそれは、唯一なる聖なる貴方(真の私)の窓に他ならない
分離、区別、二元、時間、空間は神聖なるマーヤに他ならない
以上のことを本当に理解することがやってきたとき
私達は実は何もしていないこと、何かになることもなく、
どこにも行かず、どこからも離れず、さらに私達は実在しておらず神だけが
存在していることを知るだろうといわれます。
以上が久保栄治のこの「不二一元の教え」に関しての思考や観念である
(私自身といえば全くの一般人であり、第三の目も開いておらず意識にも
到達していない自我丸出しの初歩的段階にあるといえる)