雑念を知覚するのは雑念だ
私が怒っているのか?私が恐れているのか?私が苦しんでいるのか?
私が嫉妬しているのか?私が知覚しているのか?私が考えているのか?
それとも怒りが起こり、そして自分が怒っていると意識する「私」がその後から起こっているのか?
怒りを知覚・自覚している私とは「怒り」の後から発生しているのではないだろうか?
知覚者、観察者とは脳に生じている知覚のプロセスが生み出した「個人私」であり
「怒り」「イライラ」「不安」の後から発生している。その思考感情というコインの裏表だ。
見ているものは見られているものだ。
誰が怒りを静めようとしているのか?怒りを静めようとしているのは誰か?
それとも、その怒りを鎮めようとしている私が怒りであり、怒りの後に起こっているのではないか
意志や決断や選択とは行為によって引き起こされている事柄だと云われている
脳が生み出す驚異の五感システムと、苦しみや喜び、それをあらしめている思考と感情と知覚作用
などの脳の記憶のシステムにはただただ敬驚せざるを得ない。脳のシステムがそれを受信しているのだ
誰が衝動しているのか?私が衝動しているのか?それとも行為の一部としての衝動が起こっているのか
行為と共に抗えないその衝動が起こっており、その衝動を自分が起こしたと云う知覚が後から
起こっているのではないか、そしてそれに続いて
その衝動を抑えよう又は飲み込まれまいとしている「記憶である私」の条件反応が起こっているの
ではないか
それらはこの思考や想念や意識ではないところの「意識の座」「純粋意識の窓」「統覚機能」「鏡」に、
熟睡や目覚めというものが起こっているのと同じように生起している事柄であるといえようか
言葉を換えて言えば熟睡してしまう意識も、朝に目が覚める意識も、無意識も行為も共に、この
言語や知識や思考ではない沈黙・静寂の「純粋意識の窓・鏡」に生起しているということではないか。
自他を分離し、聖者にランクを付けたり、善悪を識別しているのはこの窓の意識ではなく、窓に
去来しているマインドの意識なのである。窓を通じて投影されていることに窓が同一化したのだ。
私が苦しんでいるのか?
それともその苦しみと同じようにその苦しんでいる知覚、とその「苦しみを知覚する私」が同時に
起こっているのか?そうだ両者は共に起こっているのだ。私が苦しむのではない。と
私が考えているのか?
それともその考えが、やってきて、起こっており、その「考えを考えている私」も同時に起こってい
るのか。思考も思考する人も、感情も感情している人も共に起こっているのではないか。
それは根源が脳を通じて起こしておられることがら(マーヤ)なのではないか?それを窓(鏡)
は窓(鏡)と同一視したのだ
この思考する私とはその思考のことであり、自己意識とはその思考の記憶のことではないか?
この人生とは私の人生であるのか?私が生きているのか?私が行為しているのか?
それとも行為が起こり、この人生が起こっていて、自分の人生を生きていると実感している私も
起こっているのか?
私が眠ったのか?
いや眠りも目覚めもそれは起こっているのだ。私の自由意志で眠り目覚めるのではない
その眠りも目覚めも頭脳の状態であり、それは起こるのだ。肉体は私のものではなく神聖なものだからだ
その頭脳の眠りや目覚めとは個人の私が起こしているのではなくて頭脳に起こっていることだ。
自分の意志で眠ったりはできない、人は眠りに落ちるのであり、そして又突然目覚めるのであるから
根源が脳を目覚めさせ、そして脳が働き始め、そして脳と結合している「行為している実感の私=
記憶」が思考し始めるのだ。条件付けられている記憶が条件付け通りに思考し始めるのだ・・・・
それは脳と結合している思考の記憶が(マインドが)目覚め、そして思考(私)が眠ったのである。
この意識的自己の私とは(現在意識の私とは)脳を通じて生じ滅しているマインドの自己知覚のことであり
それは生命ではなく、まして脳を機能させ意識を生み出しているところの「名付けられない実在」ではない
生命や意識を生み出し、知覚をあらしめているのは現在意識でも覚醒、夢見、熟睡でもないからだ。
こうしてこれを考えてるのは思考であり、記憶システムが脳を通じて根源から起こっていることである。
根源が脳を通じて思考を使い、心でもって人類の各有機体にて演じておられるのである。
それを個別的霊魂という鏡は、自分を通じて投影されている事柄と自己同一視しているのだ。
脳を通じて思考が起こり、そして記憶である個別の私も追加形成される、その記憶の反応が起こる。
そして思考は熟睡の奥の沈黙に収束していく、そしてその思考の記憶(個別の私)も活動を停止する
だがしかし思考ではない生命は一時も停止することなく肉体の生死に関係なく持続している。
(肉体に吸気と共に生命が入ることによって誕生が起こり、肉体から呼気と共に生命は離れるのだ)
生命という根源から思考もマインドも生滅している。私・心は沈黙から生まれているともいえる。
それ故に生命とは思考やマインドではない、個別の私ではない。生命は沈黙であり、純粋意識であり
意識されざる生命である。対象化されざる生命である。
マインドとは私という観念であり、心であり神聖なるマーヤであるからだ。
その現在意識の私が自らの意志で能動的に眠ったのではなくて、受動的に眠りが起こっているように、
マインドは根源から起こりそして収束していく。生命が肉体に入ることもそして肉体から去ることも
マインドが興しているのではなくて生命が興しているのである。
私とはマインドのことであるから、私・思考が肉体の脳に浸透しているが故に脳が眠るとこの頭脳に
結合している私・思考も眠りに落ちたのだ。私という思考は眠りに吸収されたのだ。
私・思考は脳と一体化しているからだ。真の私はシャンカラの言うように肉体の脳と結ばれてはいない。
従って生まれたこともなく死ぬこともなく転生もしていないのである・・純粋意識だからであると。
だが脳と一体化している私には朝には私が眠りから目覚めたのではなくて、眠りから目が覚めること
が起こったのである。
私である「私・思考」が覚め「自分は目が覚めた」という錯覚し、そしてその分離の意識も又
起こるのだ。
目が覚めた私とはその「分離し、自他を分割する目」であるところの思考である。無明である
無明が目を覚ましたのだ。と聖者は言われる。
朝、目覚めたのは、真の私ではない無明だ、それが私が、自分がと叫んでいる思考だ。結果である私だ。
熟睡という沈黙から思考が起こることを「朝、目が覚めた」といい、思考が沈黙に落ちることを夜眠
るというのだ。沈黙から思考が生起している。沈黙から生じそして終熄するものそれが私だ。私と
は沈黙から生じている現象であり、神聖なる結果であるといえる。その結果を統覚機能である個別的
霊魂が自己だと取り違えたのである。心と自己を同一視しているのは個別的霊魂であると。
心は鏡(窓)である個別的霊魂を通じて投射されているのに、心を自己と取り違えたのだ。
私が雑念を起こしているのか?
それとも単に雑念が起こっているのか。その雑念が「雑念を観察している私」のことを、即ち
「雑念を知覚している私」というものを生み出しているのではないか
汚れを見ているのは汚れではないか。(汚れが100%のときは汚れさえも見えないが・・)
汚れを知覚しているものは知覚される汚れである。
雑念を観察している者とは雑念なのではないのか?
「雑念を観察している私」も「“私が雑念を観察している”という雑念」も雑念から起こっているのだ。
雑念を知覚し、観察しているのは雑念であり、雑念を退けようとしているものこそが雑念である。
その両者が「純粋意識の窓」「鏡・スクリーン」に根源から投影されているマインドなのだと
「雑念と雑念を観察している者」が同時に起こっているのである。
他者を知覚するものは自我であって純粋意識である生命ではない。純粋意識や生命には自他の
区別は存在していないからだ。「私の生命」という感覚は生命の感覚ではない、自我の感覚だ。
まして所有や、自他の分離感や、行為の感覚は生命にはない、それがあるのは自我だ。心だ。
生命は生命であり、生命には自他の区別はなく普遍であるからだ。死亡とは肉体が死ぬのであり
死亡とは生命が呼吸や魂や記憶と共に肉体から離れることなのである。
では何故、これらのことが生起できることが可能であるのか?それは純粋空間がここにあるからだ
その純粋空間こそ雑念・思考ではないものであるといわれている。
生命にも、沈黙にも、観照の目にも雑念・思考は存在していないと言われている。自己意識ではない
からだ。
それ故に静寂は静寂だけを見ている
愛は愛だけを見ている。自他の区別などどこにもなく、どこにも愛だけを見ている。
自我を内部と外部に観察している者とはその観察されている自我であり、両者は思考の側面である。
見る者は見られるものであり、主体と客体の区別は思考がしていることだ、純粋意識には区別がないと。
見る者がいないとき、見られるものも無い。自我がないときすべては完全完璧であるといえる。
見られるものがないとき見る者はいない。
見られるものが知覚されないとき、分離知覚が消え、対象である見るものはないと教えられている。
そこには純粋意識である完全完璧しかないと
そのとき即ち雑念はないので、私はいないことだろう。
この私も自我も起こっている事柄であり、意識している若しくは潜在意識の私自己も同じく起こっ
ている事柄であり結果である。この知覚も意識も私も過去の結果であり、過去から現在に対して
起こっている事である。
この知覚も、この事に関しての久保栄治の思考も久保栄治の私も、私という心も起こっていることである。
知覚、私、意識とは過去なのだ。決して現在ではない。
関係性という自他の分離の中で自他の自我を見ているのは自他に全く同一の同じ自我であり
自他の中に「普遍である真の私」だけを見ているものが真の私であるといえる。
自他という分離している肉体を見ているのは肉体の目であり
区別や差別や分離がある霊体を見ているのは霊眼であり
他己という鏡を通じて己を見ているのは自他に同じの自我の目であり
なろうとし、成就に到ろうとしているのはそこからマーヤが投影されている個別的霊魂であり
これらを対象として見ている私とは、マーヤによって生み出されたマインド「私という観念」である
静寂と観照の内で、すべてに神を見ているのはすべてである神の目(真の私)である
現象の中に実相を見ているものが真の私である
虚偽の中に真理を見ているのが真理なのだ。と教えられているではないか。