個別的霊魂



個別的霊魂とは統覚機能とも言われている。

譬えるなら、大きな建物に無数の窓がありその窓とは統覚機能という個別的霊魂のことであり

窓のあちら側は無限に拡がる本来の真の私の青空(純粋意識)である。窓のこちら側は

館内という閉ざされた次元だ、それが記憶の私などによって知覚されている内部と外部だ。

だが記憶によって知覚されている内部と外部とは窓である個別的霊魂の知覚とは異なっているのだ。

細かく言うと統覚機能である個別的霊魂が“DNAとカルマによって決定され且つ自己意識を持

っている諸体の脳とその肉体”に、そしてさらに“無知に覆われた状態”のまま繋がれたのである。

私達、個別的霊魂とは“無知・無明の私”と、そして“意識的自己という記憶の私”という「二重の私」

に覆われている.

だがしかし、読んで字の如く統覚機能がなければ知覚そのものが成り立たず、条件付けられている

脳からの思考も、「無明・無知」である私という観念の自我の思いというマインドや心が知覚されるの

はひとえにこの統覚機能が実在しているが故なのである。意識も無意識も、熟睡の意識も夢見時の

意識もこの統覚機能が在るがゆえに知覚されているのである。

ということなのであろう。


この窓という個別的霊魂である統覚機能が“無知”で覆われ且つその状態で脳と結合しているために

統覚機能が自分ではないもの(肉体・諸体・思考)を自分だと思う事が続いている・・

即ち「この私は他とは別だ思っている無知」のことを自分だと錯覚しているということ。

この無知とは「私は他人と分離していると思っている私」のことであり、行為していると実感している

私のことだ。その真の私ではない「“他と分離している私”という無知」が肉体と、肉体に起こっている

行為を自分のものだ、自分が行為していると実感している。そのように実感している「自分という分離意

識」・その無知というものを統覚機能は自分だと錯覚しているのだ。

この事を逆から言うと統覚機能である個別的霊魂は肉体と、及び肉体の行為を自分が為していると

思い、実感している「無知・私という観念」という二重に覆われているのだということだろうか


この私ではない「思考で観察している観察者」「観察される対象は自分とは異なっていると思っている

観察者」「私は、私のというマインド」を、判断や評価を交えず沈黙して見ることが’気づき’のはじめで

あり、この‘気づき’(観察者は観察されているものであるを観照している)が魂の内奥へと繋がってい

くことだろうとおもわれる。


この言語や言葉の動きなくして「観察者は観察されるものである」を見ているのが個別的霊魂

だからである。言語や言葉や知識や教えとは概念であり、思考であり理解を阻害するものだからだ

宗教とは単なる教えであり理解ではない、それは伝達可能な思想であり、思考であり

それ故に分離し、お互いが自分は理解していないことが分からないのだ。知識は理解ではないからだ。


この魂からの‘気づき’とは決して個人的なものではない。これは全体の意識からである。

にも関わらず一般的には魂とは個人個人で異なっており、魂とは個人的霊魂のことを指すと信じ

られているからである。個人的霊魂の奥に普遍なる魂が実在しているのを忘れている。


個人的霊魂とは窓であり、窓の向こうは無限の空間なのだ。空間の意識には自他の分離はない。

だからして魂とはもともと個人的ではなくて次元を超えている全体で高次の空間の意識のことを

指しているのである。

魂・・それは質料ではなくて遍在しており次元を超えている空間の意識のことなのではないか?

「魂とは個人的だ」と思う事・・それは思考による見え方ではないか?そのように思考が考えていることだ。

個別的霊魂とはこちら側の観念に過ぎないのだ。すなわちそれは窓を覆っている無知の考えにすぎない。

魂とは個別的霊魂ではないし、窓の向こう側の次元が拡がる普遍なるものだ。

個別的霊魂とは窓のことであり、窓をこちら側の分離次元のマインドから見ると個別的にみえるが、

窓の向こう側からはその個別的霊魂さえ分離次元に属しているように見えることだろう。

ただ現在の状況では窓が無知に覆われているために窓は光を室内にもたらすことが出来ず機能

不全に陥っている状況なのだ。

本当は魂とは個別的ではないし、普遍なるものだといわれている。このハートの奥にあって次元を

超えている実在のことだからだ。個別的霊魂の奥に普遍なる真の私が在るのだと。


「個別的霊魂という鏡」を覆い隠している思考が(マインドが)未知なる私(魂)を見ていると錯覚するとき

、その思考が見ているものとは思考に過ぎないのではないか、見ている私が未だ残っているからだ。

「体験している私」「経験している私」「観察している私」「理解している私」こそ真の私ではないものだ。

思考には思考(分離)しか見えていないからである。その思考の目には魂というものさえも、対象であり

且つ個的に見えていることだろう、何故なら思考そのものが「自分は他人とは異なっている私」

「私が見ている」、「私は身体だ」と思っている観念であるからだ。それが継続し働き続けている限りは

「他人と私は別々だ」「私は他人ではない」という個別的実感が統覚機能に付きまとっていることだろう。

「私はあなたとは別だと実感している」その知覚・・・それは「私という観念・無知・無明」や思考という

記憶が見ているのであり、そのマインドや記憶が諸体や意識体やエレメンタルのことを誤って魂だと

思っているのに過ぎないのだとおもわれる。

霊的諸体とは肉体と同じよう根源によって生まれたものでありそれは魂ではないからだ。

魂とは生じたものではなくて根源そのもの自体であるからであるといわれている。



ラマナ・マハリシがいう現象を映しているスクリーン・鏡とは窓のことである。魂の事である。

そのスクリーンには「“起こっていることである肉体と行為と自我”という出来事が映し出されている」

のであり、そのスクリーンもこちら側から見ていると、魂とは特定の個人を映している個別的魂のよ

うに見えているけれどもこのスクリーン自体は個別的ではないのだ。

すべての窓、すべてのスクリーンを通じて機能しているのはあのあらゆる所に遍在している空間なのだ

実際には窓の内部も窓の外部も同じ空間なのに、その窓が無知に覆われているので、窓が

内部と外部とが別々に分かれているようにおもえるのだ。



よく近頃見かける書籍の中で霊魂が写真に撮影されているといわれるが

どうして次元の異なる無限の空間(魂・意識)が写真に撮影されたり、知覚の対象や、思考の対象に

なったリすることがあろうか?

肉眼や霊眼でみえるもの、または写真に写っている「霊魂」とはそれは霊魂ではなくてエレメンタル

若しくは「殻」であるものに過ぎない、それは魂でもなく勿論精妙体でもない。その見ているものが

条件付けられている脳の状態のままにて覚知している限りは、その知覚にて把握されるものは

現況の条件付けられている同じレベル、同じ次元であり高次元の魂ではない。

対象として知覚されるものは魂ではないと言うことだ。魂は決して対象化しないからだ。

魂という高次元には二元や分離している思考はありえないからだ。その魂には私やあなたという

個別や分離はないのだ。その魂とは私やあなたの内奥にある同じ一つの意識なのだと

いわれているからだ。




戻る