二次想念からのエレメンタル
私が(わ・た・く・し・が)景色を見ている・・のではなくて
景色を見ていることが起こっているのだ。
実際には私には関係なく見る事が個体に起こっているのである。
見るプロセス(瞼の開閉−眼球の焦点調整−視神経の正常なる
働き−網膜の機能−視覚像認知−意味統覚知覚−認識)という
驚くべき複雑な仕組みが正常に作動しているので、その「見る
こと」という類い希なることがこの個体に起こっているという
ことだ。
それであるのに通常は「私が見ている」と錯覚しているが、正確
に云えば私が見ているのではなくて「見ていること」のプロセ
スがこの個体に起こっていると云うことなのである。
(これは知覚や認識そして意識についても同じ事がいえる。
私が生きているのではなくて、この完璧な肉体が生きているのである)
「見ること」が個体に起こると同時に「自分が見ていると錯覚」している「私意識?記憶」もまた正常?にそのプロセスによって発生していると云うことである。
なぜならば事実は私が見ているのではなくて見ることのプロセスが起こっているにもかかわらず「私が見ている」という虚偽の観念が同時に当然であるかのように生まれているからである。
故に私が見ているのではなくて見ていること、その見ることが起こる事によってその見ている私という錯覚が同時に発生しているということなのであるといえる。これは思考や意識や知覚も同じシステムで同じく虚偽の私を生み出している。
そしてそのシステムで生じている「私が見ている」と間違ってしまった「私という想念」が抱いている「錯覚」が凝集し蓄積し記憶となり、個人我として「条件付けられた疑似意識」を持ち始め、今度はその記憶が個人・人格といった「私」というものになり、それが時間と共に形成されていくのである。それが私達自我である。
これは見ることだけではなくて「思考」も「知覚」も「意識」も同じようなプロセスで生じている。そして記憶としての個人我が強化され、この個人我の反応が発生している、これが現在の私達の内面といわれているものである。
ここでラマナ・マハリシ風に、この起こっている私という観念のことを一次想念と呼び、その記憶の私のことを二次想念とすると。
この私達である「記憶という二次想念である人格」から更なる様々な思いが発せられることとなる・・・エレメンタルの創作と放出である。この二次想念の人格が継続しているかのように数々の輪廻を通じて鏡の前に「同一の自分もどき」が現れているのだ。それはサムスカーラが継続しているのであり、記憶が継続しているからだ。というのも鏡が同じだからであって人格が同じなのではない。
そしてこの二次想念の私という疑似意識は思うのである・・・
「明日はどうなるのだろうか?」「生活を安定させなければならないのに」「将来はうまくいくのだろうか?」「地震はいつ来るのか準備しなくては」「お金はどうなるのだろうか?」「修行して悟らねばならない」「病気は治るのだろうか?」等々・・と、そして疑心暗鬼と取り越し苦労が始まる・・それはこの疑似意識という個人我が、肉体と諸体を通じてのシステムの結果生じている(即ち行為の結果生じている)記憶なのに、(それはやってきた想念の後に生じているのに、又は見ることの後に生じているのに)もかかわらず、自分が見ている、自分が行為している、自分が生きている、自分が知覚している、自分が思っている、自分が欲望している・・と、思い込んでいるからである。自分が行為しているのではなくて行為がまず先に起こり、後からその行為している実感が生み出されているのである。
この二次想念・個人我という「プロセスによって生み出された記憶」というものは、明らかに条件付けられており、条件付けられているようにしか思考できないし、条件付けられているようにしか欲望出来ないし、感じられないし、見れない
「自分が行為している」、「自分はこの肉体だ」、「自分がこの人生を生きているのだ」と思い込んでいる・・・だがしかし実際には、行為は起こっており、出来事は起こるように起こり、脳の状態も、DNAも、生も死も、成功も失敗もこの個人我にはコントロールできずに起こっていることであるにもかかわらず自分とは自分の主人で、この人生もこの肉体も、この肉体の行為も、自分のものだと錯覚している。出来事は自分が起こし、自分が取捨選択していると思っている。
この個人我という通常の意識の私達とは自分の主人ではない。
私達は起こっているプロセスの結果なのである。
私達とは鏡というスクリーンに投影されている映像であって、見ている観客や、それを作った製作者ではない。スクリーンとは魂であり、個人我も真我も映しているのだ。
私達という個人我は自分の主人ではないのだ。だがしかし私達とは“自分は主人だと思い込んでいる「私という観念」の記憶”でしかないのである。あらゆる意識を生み出されておられるのは根源であり、出来事を起こしておられるのも根源であり、行為しておられるのも根源であり、肉体も根源のものであり、この個人我の限定され、条件付けられている意識もどきも根源のものであり、この自分の意識は自分のものではない脳の結果なのである。自分の主人とは、あのお方、根源なのだ。根源がこの私達という個人我を使って現象界で喜怒哀楽を演じておられるのである。
だから
この二次想念から引き起こされている思い、心配、不安、取り越し苦労・・・
これこそが「私が行為している」と思っている記憶から発せられるエレメンタルなのである。
平たく云うとこれらのエレメンタルとは自我が思うところの三次想念や三次思考のことである。これらの思考や感情こそが条件付けられている自我から発せられる想念即ちエレメンタルのことであり、このエレメンタルが物質界のみならず死後も続いている中有界(バドル界)を埋め尽くしてしまっている。
通常の日常生活で「自分の想念」と云われているのはこの三次想念という、“「私という観念」から形成された記憶である個人我”から発生しているエレメンタルのことである。
一次想念と二次想念と三次想念が複雑に絡み合って人生模様を編み出している。
この二次想念である個人我から更なる憎しみや、悲しみや、不安や、恐怖や、苦しみのエレメンタルが生み出され続けている。
このエレメンタルのことをこの二次想念である個人我は自分の考えや、思いとして「我思う故に我有り」と誤解しているが、これらの想念や考えとは条件付けられている記憶の反応のことであり、それは心と言うよりはエレメンタルなのだ。
そしてこの三次想念を生み出し続けている私こそ現在の私のことであるが
この私こそ、鏡であるわたしにぴったりと合わせられているマーヤに他ならない。この現在の私こそ神聖なる神が演技されてるマーヤの私なのではないだろうか。起こっている行為の直後に生み出され続けている記憶の継続なのだ。