意識が思考と同一化してしまっている
意識は思考とは異なっている、意識とは思考ではない。
だが現況では殆どの意識が思考と同一化してしまっている。
意識が脳と繋がったからである。
または、意識が脳で受信している思考と一体化してしまっている。
それは意識が脳に縛られているからである。
通常、意識は脳が眠るとき思考から切断されて脳と共に熟睡状態になる。
そのとき脳が思考を受け取らず、脳の眠りと同時に思考も遮断されるからである。
意識とは思考ではないのに、脳と同一化した混濁した意識は自分は思考だと
思っているので眠った状態に陥っている。
熟睡時、混濁している意識は思考を受信していない熟睡の脳にだけ知覚し
ており、意識自身の内奥の純粋意識に気がついていない状態にあるのだと。
現況では何故、意識が脳とだけ繋がり内奥の純粋意識と繋がらないのか?
それは意識が混濁しており、純粋ではないからである。自身の内奥を見て
いないからだ。というのも「私という観念」に厚く覆われているからだ。
現況では鏡が曇っていて内奥の大空が見えていないのだと。
意識と思考とは異なっているのだから、意識と思考の正しい識別が必要となる。
ハートとマインドは違うのである。異なっているのだ。ハートは考えないのだ
だから直覚する。ハートは純粋な心であり「思考と言われるマインド」ではなく
観照している「眼」でもあると。
思考は意識を思考できない、思考は思考だけを思考している。
思考や意識について考えているのは思考に過ぎない。思考している限り見るこ
とはない。理解することはない。
だが意識なくして思考はあり得ない、花も雲も嵐も鏡に映っているものだからだ。
意識は思考を意識できる。意識である私達は言葉なく思考を見ることが出来る。
意識である私達には思考に左右されずに思考を観照することが出来る。
ただ練習が必要なだけだ。
意識には思考を見ることが出来るし、思考と同一化しないで観照できる。
私達は思考ではなくて意識という鏡だから同一化しないで見ることが出来るのだ。
ただ思考なくして見る練習が必要なのだ。非難や判断や同一化や逃避なしに
見る訓練が必要だ。正しい自己観察と、正しい自己想起の練習が必須だ。
思い考えている状態とは、思考が思考しているのであって意識の状態ではない。
それは前頭葉が働いている状態であり、ハートは動いていない状態だ。だから
ハートで感じること、ハートで見ることだ。ただしそれは純粋なハートでだ。
ハートの意識は思考を意識できるし、意識を意識できるが
現在のところ個体の脳と結合した曇っている意識は思考と同一化状態にあり
現況での意識は混濁しており脳の状態だけを受け取っているから、脳との
一方通行の状態にあるといえる。ハートの内奥との繋がりが殆ど閉塞している
からだ。
意識があるのは純粋意識があるからであると
そして純粋意識は意識の内奥にあるといわれる。
それ故に意識は鏡とも言われ、個別的霊魂とも言われ、統覚機能とも言われ
純粋なる心とも言われ、内奥で純粋意識に繋がっていると言われる。
意識、それは本来は曇りなき(言葉なき)精神とも、純粋なる心とも表現され
澄明なる鏡とも、ハートとも言われている。だが現況ではそれが「私という
観念」で覆われているのだ。
それがゆえに、脳で受信する思考を「統覚機能という鏡」を覆っている「私という
観念」は曲解し、起こっていることを自我の観念で汚染してしまうのである。
本来は起こっていることはあるがままであるのにこの「私という観念」が即ち
自我が曲解して捉えることにより人生の苦悩が始まるのである。
しかしそれらといえども純粋意識、純粋精神がなければ一瞬たりといえど
も存在出来ないといわれている。
その思考、記憶、自我も神の芸術作品なのであろう、それらは意識と同じく
純粋精神のものであると言われているからだ。