複数の私、複数の記憶
なんとこの肉体は素晴らしいのだろうか、この見事な身体とは私のものなのであろうか?
通常何の疑いもなく自分の肉体だと実感しているが果たして私の肉体なのであろうか?
私にこの脳や肉体は造れるのだろうか?
この脳と肉体は私のものであるのか?私の所有なのか?
勿論否である。
脳も身体も、私のものではなくて未知なる叡智のものである。叡智が生きているのだ。
誕生も死亡も私が選択したのではなく、個人の私とは誕生し死亡している結果なのである。
この錯覚は統覚機能が身体の隅々まで神経を媒体にして浸透しているが故に起こっ
ているのである。しかもその統覚機能は二元分離の「私という観念」に厚く覆われている。
ではこの私に、この呼吸や循環や消化や生殖といった肉体の維持は出来るのだろうか?
勿論不可である。
肉体の維持は、健康も病気も死も含め、純粋精神である神聖なるあなたが為さっている。
ではこの私に視覚をはじめとする味覚や聴覚や超五感を生み出せるのであろうか?
勿論不可である。
精妙なる五感や超五感はあなたがお造りになった最高傑作であり、あなたがそれを発生させ維持されあなたがそれを感覚しておられるのであるから五感はあなたのものである。
あなたの芸術作品である。
ではこの私に、肉体の行為や、起こっている出来事の選択であるこの自己意識という「私という観念」や
その観念の記憶である自我や、その自我の反応といったものを生み出せるのだろうか?
私に自我の悲しみや苦しみ楽しみや感動が生み出せるのか?
勿論不可である。
私・自我とは、起こっていることの結果である、行為の結果であり、選択の結果であり、思考の結果であるものなのではないか?
その自我という「私という観念」やその観念の記憶や、記憶の条件反応こそが起こっていることなのではないだろうか。
では私にこの思考や観念を生みだせるのか?
思考や観念とは自分が生み出しているように思えるのだが・・・?
その通りである。
但しその場合の私とは統覚機能という知覚主体である私ではなくて
統覚機能を厚く覆っている「私という観念」の私であるところの.“マーヤ”である。
自分という「私という観念」がこの思考や想念を二次的に生み出しているのであり、
「自分の考え」や「自分の思い」とはこの「私という観念」が生み出している二次副産物だ。
マーヤが自我の自由意志を用いて自由に行為されているのだ。
自我とはその「私という観念」の記憶なのではないだろうか。
だから心配したり、恐れたり、考えたりしている私とは、マーヤがお使いになっている「私という観念」の思考や感情に同一化している現在のパーソナリティーの私なのである
または現在のパーソナリティーが脳との接合で生じている現在のパーソナリティーが生み出しているエレメンタルとしての人格や個人の反応なのではないか。
「対象を知覚している統覚機能の鏡自身のこと」ではないのに統覚機能・魂はその「私という観念を私だ」と思っているのである。【この思っているものを自我とは区別してサイコノエティック体(魂の一部)という場合もある】
この自分という「私という観念」がないときには思考や想念はないし、
その思考が終焉している状態の目で見た場合には行為も「起きている事」と見られていることだろう。
さらに純粋意識の目で見た場合にはラーマクリシュナのように「すべては神が行為
しておられる」という所まで行くのかもしれない
しかしそれ以前では「行為は起こっているのだよ」とその「私という観念」が言い張ったところで、それは嘘の虚言であり説得力を持たないのだ。「行為は起こっている」とそれを言えるのは思考ではない純粋意識だけだからだ。
私であると思われてしまっている記憶や記憶の反応とは思考や想念のことであるが、・それは脳の条件付けに従って起こっているものであり、その脳の条件反応が「自分の考え」といわれているものだ。その「自分の考え」である想念や思考とは条件づけられた脳の反応なのだ。「考え」とは記憶の反応なのだ。若しくは「私という観念」からの思考なのだ。それを脳を媒介して統覚機能が知覚している
そしてそれらのプロセスも脳の条件付けも「純粋意識」によって起こっていることに他ならない。
煎じ詰めるとこの「自分の考え」とは脳の条件付けられたこと以外には「自分の考え」が起こらないと言うことだ。
その条件付けられている脳が脳を超えている純粋意識であるかのように「私は行為してない」「私は思考ではない」と思考していても、それは所詮思考の枠内のことであり、脳の条件付けの範囲内のことである。
ではこれらのことを考えている私とは一体誰なのだろうか?
この質問は質問自体が間違っているのではないか
思考している人、思考している私個人とは実際には、「私という観念」のことであり、そしてそれを脳で受信しているのであり。その心という全体と分離している個人とは、個人ではなく心なのだ。その私とは起こっている心の記憶のことである、それは脳の条件付けの結果でもあるといえるのである。
それが私だ、自分だと主張して自己を実感しているが、その実感とは鏡という統覚機能の私ではなくて統覚機能を覆っている「私という観念」の実感なのである。
マーヤの力によって「自我は存在している」と統覚機能が思わされているのだ。
しかもその自我・私とは複数なのである。記憶は多数、複数有り、入れ替わり鏡に現れている。
それぞれの私とはそれぞれの記憶の反応であり、それぞれのエレメンタルの反応であって
それが連続している同一の私だと統覚機能には誤って知覚されているだけなのだ。
私だと主張している私とは「私という観念」なのであり、私だとの実感はその「私という観念」の実感であり、その記憶群であり、その記憶の反応なのだ。
確かに記憶群とは鏡にむらがっており、そしてその記憶群からの反応は瞬間的に入れ替わり
同一の鏡の表面にて知覚されているから、あたかも私とは同一単一の私のように知覚されているが・・・
その私群とは「統覚機能の鏡」の前に立ち現れている「私だという群れ」なのである
それを統覚機能はこの肉体の特定の脳に焦点が合っているため、誤って私という自我は個人であり「一人・個人」だと思い込むのである。
又確かにその記憶群とは、それぞれが私という自己意識を有し、私という意識があるし経歴も違うし、またそれぞれに個性を有し、性別も性向も気性も異なり、情緒的反応はさらに
それぞれ異なっているけれども、それの中身は思考の記憶であり、
その記憶の反応のことを統覚機能は誤って「私」だと知覚しているのある。
この誤った知覚をしている統覚機能の観点でもって記憶の反応を見た場合
複数の自我、複数のエレメンタル、複数の私がいるように見えるのだ。
それはそのように見えているけれども、だがそれは複数の私ではなくて複数
の記憶群、複数のエレメンタル群が入れ替わり立ち替わりこの統覚機能の鏡の
前に現れてくるのを、統覚機能である鏡は自分とはそれらの私だと錯覚しているのである。
その私とは記憶群の反応なのだ。「鏡である統覚機能の私」ではないのである。鏡の前に出現している“数珠”のようなものである。その数珠とは過去の私群なのだ。
統覚機能・鏡は脳の前頭前野に接点を持ち、脳と同一状態にあるために
脳の前頭前野が眠ってしまうと同時に統覚機能は思考を受け取らず(私を受け取らず)
心である現在意識も脳と同一の状態となり、この現在意識は一時的に停止して無意識状態が知覚される。
それが熟睡状態だ。
熟睡とは統覚機能・鏡には思考が知覚されない、即ち思考が意識されず
思考と言う記憶やエレメンタルの自我が意識化されずにいる。が鏡は勿論機能しているのだが・・・。
脳が眠っているのでそれに同一化している統覚機能も脳の眠り即ち無意識
の状態となっているのである。
即ち統覚機能は眠りという脳の状態を知覚しているのだ。それを熟睡と知覚しているのだ。
それは鏡は鏡の内奥と繋がっているのに内側と繋がっているパイプが詰まっているので、「それを意識できない状態の鏡・統覚機能」にとっては、この状態を無意識・熟睡と知覚しているということなのである。
本来、鏡である統覚機能は内奥の純粋意識と結ばれているのに
その内奥とのパイプが詰まっているので脳の熟睡と同一化してしまっているということだ
従って熟睡・無意識と知覚するのである
この現在の現状の統覚機能にとっては脳と結ばれている以上は脳にて知覚される「私という観念」の思考の私のことを私だとどうしても錯覚してしまうこととになる
この状態が今これを書いている久保栄治という統覚機能と現在のパーソナリティーの現状なのだ。