心とは

ラーマクリシュナは言う

 
1:外界の意識のある状態ー心は粗大体と精妙体に
 2:半分外界の意識のある状態ーそのとき心は原因体、原因体の喜び
   に入って
 3:内奥の意識の状態ーそのとき心は大原因に融合しています
   粗大体とは、即ち食物からなる蓋被です。
   精妙体とは、すなわち意と識からなる蓋被です。
   原因体とは即ち歓喜からなる蓋被です。
   大原因は五つの蓋被の彼方です。

   心が大原因に没入すると、そのとき三昧状態になります。
   それがニルヴィカルパ・サマーディ(無分別三昧)です。
   またはジャダ・サマーディと言われるものです。


では、ここでラーマクリシュナの云う心とは一体何を指しているのだろうか?
心とは通常では肉体(粗大体)や思考や感情(精妙体)と一体化している意識のことであり、
さらにその心が純粋化した場合は
半分外界の意識のある原因体(魂)に入り歓喜に触れていると言われていることからして、心それは可能性と可塑性のある意識のことを指している。
霊的松果体にある魂と繋がっていて前頭葉前野の脳と結合している現在意識、若しくは魂である統覚機能部分、若しくは自我ではない可能性と可塑性のある現在のパーソナリティーのことともいえようか。

ここで重要なのは、ラーマクリシュナが云っている心とは、自己意識の事ではなくて
意識そのものの事であるということだ。
この意識そのものとは思考や想念や観念ではないと言うことだ。
即ちラーマクリシュナのいう心とは自己意識(私と言う観念)を映しており、現状では自己意識(私と言う観念)に覆われているけれども「純粋なる鏡である意識」の事であるといえようか。

だからこの鏡であり純粋な意識(自己意識ではない意識)とは、自身の内奥である大原因に融合することも可能であると言われているのである。

この現状では自己意識と一体化しており、その自己意識に覆われている意識そのものが、
即ち鏡が私達心の本性であり、この鏡の内奥にこそ大原因が実在しているのだと云われているのである。私達心とは鏡なのであり自己意識や私と言う観念ではないのだ。

心とは鏡である。私達は鏡である。鏡に映る思考や想念を観照している「思考なき目」であり、その目とは鏡に映っている自己意識ではない。思考や感情ではない。その思考や感情を自他に分離せず「思考なく見ている目」なのである。
けれども私達心は私と言う観念(自己意識)に覆われ、心がその自己意識と同一化しており、自身である魂の内奥に気づくことが出来ないのだ。
心とは意識的自己ではない。意識的自己(自我)が鏡を覆いかぶさっており、鏡である私達が、その肉体や精妙体の頭脳の状態を自分の状態だと錯覚しているのである。
私達は肉体や思考のように動き回るものではなくて動かないものなのだ。
動くものは私達ではないのだ。思考や知覚や選択や意志は私達ではないのだ
私達は動かず見ているもの、思考を使わず観照しているものなのだ。

だが此処で注意すべきは、この文章で私達と言っている私とは現在の意識である意識的自己のことではなく鏡としての私のことであるということだ。
日常で通常の人類の意識している私とは、即ちこれを書いている私、及び読んでいるあなたのことだが、それは「心である鏡」ではなくて鏡を覆っている方の「私と言う観念」の意識的自己であると言うことである。
通常の知覚し、知覚されている私とはラーマクリシュナのいう心のことではなくて心を覆っている方の「意識的自己」のことであり、心や鏡ではない私、・・・即ち私ではない私のことであり、私と詐称する「観念の私」のことである。それが人類共通の「知覚している私」のことであり、私だ!と意識している「私と言う観念」の私の事だ。
このことは意識的自己の立場からすれば、これは自己否定ということであり、これは自己矛盾状態のことでもある。がしかし思考なく自己観照している「目」からすれば、この意識的自己とは観照者ではなく思考という「観察者であり観察されるものである」と言うこととなるのだ。

では再びラーマクリシュナの教えに戻ろう
心とは肉体ではない、肉体と同一化してしまっているのが心である
心とは精妙体ではない、精妙体の知覚や思考や感情のことを自分のものだと錯覚しているのである。
分離知覚や思考や感情や欲望と一体化しているのが心なのである。
心とは本来思考ではなく感情でもなく、想念や思いでもない、欲望でもない鏡であるからだ

心とは自己意識ではない、心とは意識でありその意識には自己の実感はないからだ。
自己意識・自我とは私と言う観念の思考であり私と言う観念から派出されている思考だ。それが鏡を占有している観念に他ならない。

ラマナ・マハリシが
全ての想念は、偽りの「私」(根本第一想念である私と言う観念)、つまり非実在のものである「私という想念」から立ち現れる。それゆえに考えることなしにとどまりなさい。

と言われるように全ての想念は私と言う観念から現れておりその観念が「心であり意識である鏡」を覆い尽くししているのである

私達は鏡であり心であり、意識そのものであるから自己意識ではない。
また肉体でもないし、精妙体でもないし、又その精妙体である思考や欲望や感情や想念でもない。それらを自他に分離せず「見」ている意識なのだ。
私達は心であり、内奥では「大原因」と繋がっている鏡なのだ。
その鏡とは「目」であり、ただ「見」ており自我や、思考や、知覚や、感情や、欲望や目的や、判断や、評価や、命名化や、善悪や、同一化や、逃避を含まない純粋なる意識なのだ。
ただ現況ではその鏡は粗大体と精妙体に縛られそれと同一化しているだけなのだ。



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