私達は自分自身に関与しているのだろうか?
私達とは、自己意識であり、思考である。その意識し思考しているものそのものの意識が私だ。
自我とは意識しているものであり思考しているこの私のことだ。その意識と思考そのものの事だ。
この意識し意識されている自己とは自分自身である自己・自我のことである。
それを、それらの自己を去来しているもの、やって来ているもの、鏡に来ては去るものと実感しているのは観照している魂の私のことであり、その私とは決して「現在の私という意識」ではないし「現在の私という意識」によっては意識されない。私達とは通常の意識の有様では「肉体の感覚を自分の知覚として実感している」のであり、それは鏡に去来している思考や感情を観照している高次の意識なのではなくて、その思考や感情それ自身なのである。それはまた思考や感情を「自分はそれとは違う」と思い込んで観察しているその思考自身であるところの自分である。けれども本当の「観照者の私」にへと変容が起こるためには、観察している自己・思考とは観察されている自己・思考であることを心底から見なければならない、その目が「気づき」へと変容していくのである。だから私達・自己という思考は気づきへと終焉し変容していくために観察者を正しく「見」なければならないのだ。
聖人の「言葉を超えている言葉」を思考で読み、そして考え、「私は起こっている自我や思考を見ているものだ」と思っているのだが、しかし、その私はその見られている私なのである。即ち自我なのである。依然として変わっていない自我がそこに居座っているのだ。
この自我である私が聖人や覚者の言葉を聞いて、憶えて暗記してしまい、自分とは自我であるにもかかわらず聖者や覚者である「全く自我ではない意識状態」を自分の意識状態だと錯覚し、そしてなりきりその言葉に酔いしれてしまい、自我の意識でもって、私は自我を観照しているなどと「その至高の状態」を想像し誤解し、体験するのである。けれどもそれは思考ではないもののの(言葉を超えている)言葉を思考が聞いて思考の状態でもって思考ではない状態を推測しそして曲解し誤解し、体験しているに過ぎず、即ちそれとは自己欺瞞の状態なのだ。
「私は自我・自分自身に関与していない、私は自我ではない」と思っているものとはその私自身であり、自我自身である。
何故なら、その状態は自我が、「自分は自我ではない」とそのように「考え」「思っている」からだ。
「考えたり」「思ったりする事」で、それは自我であることを証明しているのだから、その思考する私は自我だ、自我でない私は思考していないからだ。思考の私がその思考は私ではないと云うのだ。これは嘘なのだ。
私・自我とは、「私とは思考や欲望や想念や意識に関与していない私だ」と思考している。
「私は思考や想念や欲望や意識を見ているのだ」と思考し、単にそう思っているだけのその思考なのである。
(実際には自我は自我を正しく見ていないのである。自分は自分を見ていると想像し思い込んでいるに過ぎない。自我を正しく見ている時、見ている私はいない即ち思考が終焉しているからだ)
そのように「思考しているその私」こそ自我であり、思考であり、錯覚することで廻りに害毒を流し続けている者、即ち転生を続けている個人であるものだ。
ラーマクリシュナやラマナ・マハリシを読んですっかり虜となった私即ち、私・自我とはこのように「自分は自我ではない」と思い込み間違って思考する。
「私は行為や出来事に関与しているのか、それともそれはただ起こっていることなのか?」と思い思考する、がそれは単に思考しているだけだ。起こっている出来事そのものの意識なのだ。
その自我は、またこのようにも思考する
「私は肉体の生死や、自己意識の誕生と死亡にほんとうに関わっているのだろうか?」
『私はこの「自分と他人、見る者と見られるもの、主体と客体に分離して見ている目」ではなく、それらの「私と言う観念・マインド」の目とは、「真の私であるハートの目」ではないのではないか?そしてそのハートではないマインドの目こそがこの私に覆い被さっているのだ』と
だが、そう思考している者こそが自我の私であり、その私こそ自我なのである。何故なら思考が続いているからだ。
さらにまたその自我が
「自我とは熟睡し、夢見、覚醒している日常意識といわれているものだ、もしハートの目で見ているなら私はあなたであり、見る者と見られるものの分離はないはずであり、自己も他己のなく、ハートが全てに遍在していることだろうからである。」と思考でもって「思考ではない状態」を思考している。これは思考による単なる曲解だ。思考の自惚れであるに過ぎない。それは思考が思考しているに過ぎないのだ。知識や言葉では知識や言葉を超えている状態を決して理解出来ない。理解するためには思考が停止していなければならない。思考には思考停止の状態が分からず恐れ理解出来ないのだ。
私・自我とは、自分を対象に投影した自分自身であるのに「その投影された自分は自分ではないものだ」と思い込み「自分ではない真の私」と同一化しようとし、自分は魂の私だと思い込む。
そして云う
「私は行為していない」「私は観照している」と、そしてさらに
「自分は肉体やその肉体の生死に関わっていると思っているだけなのではないか?実際は私達は健康や病気や成功や失敗や運の善し悪しや自己の魂の進化階梯に関わっていると思っているだけでそれらには関与していないのではないか?」・・・と、さもそれを実際に理解している真の私であるかのように考え、思考し、推測する・・・・だが
この崇高な思考は、実は崇高ではない。崇高なるものは決して思考ではないからであり、これは単なる思考であり、その思考とは思考を超えている純粋なる意識に対しての誤解であり、真実への曲解なのだ。自我であるのに「自己ではない理解の意識状態」をあたかも理解したように錯覚する。
そして自分で自己を騙している、即ち自己欺瞞である。
この件について、呼吸を整えてじっくり落ち着いてみて見れば、それは明白だ。
「私達とは誕生にも死亡にも全く関わっていない」「私達はこの起こっていることがらには全く関わっていない」「この起こっている“出来事に関与していると思っているこの私”を使って神が演じておられる」「“自由意志があると思っているこの私”を使って神が自由意志で演じておられると、ラーマクリシュナは言っているからだ」と、更に良くないことは、そのように暗記して喋り続けるその自我はさもそのラーマクリシュナの意識状態を理解しているかのように思い込む・・・だがこれは自己欺瞞である。思考は全くラーマクリシュナを理解していないからである。自分という思考が停止し、聖なる状態が顕現したならラーマクリシュナを理解する事もできるだろう、だがそれまでは誤解するばかりで理解はない。思考が残余しているからだ。
だからこのように、自我は必ず誤解するわけだし、真の私の理解を、自我はさも自分の理解のように、「考え」、自我の立場で想像し誤解して、自己を欺き真の私であるラーマクリシュナのいったその「全く自我ではない私から語られている言葉にできない言葉」をあたかも自分自身の言葉であるかのように滔々と喋りだすのである。これらの言葉は単に鸚鵡返しであり全くラーマクリシュナと言葉は同しであっても中身は正反対であり嘘なのである、それは思考であるからだ。
従って私達は私達である自己自身、自我自身には関わっていないのではなくて、私達こそがまさにその自我という自分自身、その思考、想念、欲望そのものなのであるということだ。
私達はこの肉体が、この頭脳が、この特性、この能力、このDNAが生み出した結果である。結果であるものである私という意識なのである。即ち思考自体なのである。
『“気がついたときにはこのDNAの肉体に、そしてこの環境に、この人種にいた”と実感しているのは、この自我ではなくて「自我という思考が終焉したときに顕れている魂」なのである。
“才能のあるなしや、運のあるなし、どんな家に生まれるのかを含めて
また肉体から去るときも同じだ。私達には取捨選択はなく、自由意志はないのだ。”
“肉体に入る者、肉体から去る者、それは誰なのか?”』・・ということを言えることが出来るのは、この私という結果である自我ではなくて魂の私なのである。・・・ということを、この自我である私が、それを聖者と同じ言葉で自分の事らしく話しているのは自己撞着、自己欺瞞である。何故ならその聖者の言葉を話すことによって、言葉より虚偽が伝わるからである。自分ばかりではなくて廻りにも嘘をついて害毒を流しているのだ。
従って自我ではなくて、観照している私と繋がったのならばこう言うのである
“私であり、その思考であり、その想念であり、その欲望であり「私と言う観念」である統覚機能が(個別的霊魂が)肉体に入り、肉体から出るのである。”
“輪廻している者とは個別的霊魂ではなくて記憶の私であり、記憶に過ぎないのではないか?”
“私達はこのこれらの輪廻に関与しているのだろうか?個別的霊魂が巻き込まれたと思っているのだ”私達はまたいままでの人生に関与していたのであろうか?”
“自分で運命を切り開いたと思っているだけではないのか?”
“この肉体、この個体の才能や才能のなさ、この自我や、肉体の生死とは起こっていることがらなのではないか?”等々と
かくして自我である私はこのように、自我から思考し推測する。言葉は同じでも中身は全く異なっている。それは単なる思考に過ぎないのだからだ。知識や情報や記憶は百万巻の書物であり
それらの思考が終焉しないかぎりは、思考を超えているものの理解はない。
“「私と言う観念」である自我が肉体と同一化しないで、その普遍的な自我に留まった場合
私達とはこの自我という自分自身に関わっているのだろうか?それとも関わっていないのだろうか?自我とは「私と言う観念」が肉体と同一化した結果生じている記憶なのではないか。
私達のこの内面とは自分のものだろうか?それともこの自我とは「私と言う観念」の記憶なのだろうか?
私達のこの知覚とは自分のものだろうか?それとも「私と言う観念」であるマインドがねじ曲げたのものだろうか?”等々と
更に以下の様に思い込みは続く
“この自己の行為や意識や感情や記憶にハートであるわたし自身が関わっているのか?
この自己の熟睡と夢見と覚醒の意識にハートであるわたし自身が関わっているのであろうか?
私達は私達自身である自我に関与しているのかどうかということだ
それともこの自我は、この人生のように(出来事のように)私達に与えられているものなのだろうか?この与えられている自我は本当に私達自身なのか?”
・・とこのように尋ねている内容のこととは自我の私にとっては想像上の(観念でしかない)ことなのだ。それは自我にとっては「想像でしかない個別的霊魂」からの問いである。既知の私が未知の私の物まねをしているのだ。
“私達とは行為していると錯覚する自我なのか、それともその自我を観照しているハートなのか
自我とは良くなったり悪くなったりするものなのではないだろうか?
私達は好んでこのような自我を選んだのではない
意識が与えられた事柄と同じように、肉体の誕生と同時に、この私という自我はピッタリとくっつけられていたのである
それ以降は出来事も、考えることも、自我の性質の善し悪しも既に与えられているものであるし、今後もそうであろう。”」などとだ
このように「自分が行為している実感があるのに自分は行為していないと信じ込み」、「この意識は自分のものではないと信じ」そのように思考していると者は誰なのかということだ。それはこの現在の意識であるこの私、このわたし自身である。と言うことが明白になる。
にもかかわらず自我はこのように思う
“私達にとっては、これを思うことも思わないことも、賛成することも反対することも
この自分自身を含めて、畢竟それは起こっていることがらなのではないか
この考えや信仰や観念自体が与えられているものであり、起こっていることであるといえるのではないか。それは、よく観察すれば自ずと分かることである。
自分自身であるこの自我とは意識と同様に根本マーヤによって与えられているものなのである。”とさも分かったように云う、だがそれは学んで記憶し話しているだけであり理解していない
“実際は全てがラーマクリシュナやラマナ・マハリシのいうように起こっている映像ではないか。
自分自身も、意識もハートという鏡に去来しているものなのではないか。
自分は自由だと思い込むことも、自分が努力して瞑想をして真我を実現するのだという
「全託しないこと」もそれは起こっていることではないか。”
“私達はこれらのすべての起こっている事に対して関与していないし、関わってはいないし、関わることも出来ない”
・・・と自我はそのように、あたかも自分が魂の私であるかのように自己を偽って思考する。自らを騙す。
・私達は生死に関わってはいない、関わっていると思っているだけだと思考する
・私達は解脱や成就に関わってはいない、関わっていると思っているだけだと思考している
・私達は自己に対して関わっていない、関わっているのは神であると思考する
・私達は運命には関わってはいない、運命は根源の映像ではないか。と思考する
・私達は自分で自分の運命を切り開くことが出来ると信じており、自由意志があると思っている
だけだ。自由意志とは誰の自由意志なのであろうか?根源の自由意志であるのだと思考する
・私達は自分自身に関与していないし関わっていない。自分の自己だと思っているだけだと
思い込む
・私達は出来事には関わっていはない、出来事は自分が起こしていると思っているだけだと
思い込む
・私達は思いや、考えや、観念に関わっていはない、それは起こっておりやって来ているの
だと信じ込む
・私達は行為に関わっていない、この肉体を動かすことは私達には出来ないからなのだと実
際の実感に逆らって思い込む
・私達は意識には関わっていない、私達は自分は意識であり、自分の意識だと思い込んで
いるだけだ。この現在の意識とは個別的魂である統覚機能が脳と結びついているが故に
、この自己意識とは朝やって来て、夜熟睡と同時に無くなる脳の機能・記憶に過ぎない・・・
などと教わった通りに鸚鵡返しに思い込む
・私達は肉体に関わっていないし、病気や健康や成功や失敗や運命には関わっていないと
実際は実感していないのにそのように思っているのだと信じ込む
・私達は何もしていない、何も出来ないからだ。全ては私達に関わらず為されているからだと
思考するがその言葉は自分に嘘をついているのだ、実感ではないからだ。
・私達は何も為していない、為しているのは肉体であり肉体の行為は根源によって為されて
いるからだとその思考を超えている状態のことを思考でもって誤解する。
・私達は何も求めていない、求めることや求めないことも生起しているからだと聖者の言葉を
誤解して、自分は信じていると自己を欺く
・私達は何も願わない、願うことも願わないことも鏡に去来しているからだと、実感していない
のにさも実感しているように自らに信じ込もうとし自己を欺く。
・私達が何かに至ろう、何かになろう、達成しよう、解脱しようとしているのではない。それら
はあたかも自分が生きていると思うように(自分の人生であるという思い込みをするよう)に
条件付けられた脳と同一化した「個別的魂・統覚機能」が錯覚していることだ。
これらの錯覚・それらの錯覚のエレメンタルそれはこの鏡に去来している想念であるが根
源によって投影されている映像なのだ。
・私達自身というものが去来しているものだ、この私達自身が鏡に去来しているものだ
この自己も、自己が知覚する対象も、この衝動も、この肉体も、この思考も、この想念も、
この知覚も、この真我実現しようとする自我の願望も、全託することも全託しないことも、
全託していると錯覚することも、全託していないと錯覚することも、全てに私達は関与して
いない。
・・・等々と実感していないのに分かったつもりで自己を欺く。聖者の状態を全く誤解して理解したつもりになる。そして言葉による教えとは必ず間違ったものとなるだろう。
私達は「この自我を使って生きているのは神であり、神しかいない」というラーマクリシュナ達の教えを聞いて、この言葉はラーマクリシュナのいる「知識や言葉という次元を超えた無思考の地点」からの真実であり、私達である自我とはその使われている道具であることを決して理解しないのだ。思考が脱落していないからだ。
思考の停止という沈黙がないからだ。だが沈黙という言葉は思考であって沈黙ではない。言葉が止み、知識と記憶が止み、思考が止んだとき、さらにそれらを停止させようとするマインドが止んだとき自我は止み、沈黙があることだろう。