気づきは私達にとって不可能ではない
気づきとは自我(自己)が自我(自己)を無条件で愛しているときそのときその自我(自己)の中に気づきが生まれているのではないか
気づきとは、自己である自我を対象として客観的に見たりして、自我のことをああだこうだと非難したり、評価したり、判断したり、逃避したりしているのは、その同じ自我だと気がつくときそれが気づきの始まりではないか
気づきとは観察者は観察されるものだと「見」ている時、その「見」が気づきなのである、ハートなのである
気づきとは、自我の奥にあるのだが、この自我が「自我を観察しているものは自我に他ならない」と、その自我が自我と一体になったときそこに現れているのがハートの意識即ち気づきだ
気づきとはハートの働きであり、マインドや思考や感情ではない。マインドや思考や感情を見ているのは同じマインドや思考や感情であることを思考やマインドが見ている時、その「自我が自我を見ている」「思考が思考を観察している」という事をハッキリ見ることが「心臓の結節」を解くことと思われる、即ち「自我である思考」と「気づきであるハート」を分断していた結節が溶解するのである。思考やマインドが気づきへと変容するのであると
気づきとは自我を観察しているものはその自我自身であることをその観察し、観察されている自我がハッキリと理解するとき、その理解こそが気づきであり、そこには自我への非難もなく評価もなく、判断もなく、自我が自我と一つになった状態即ち愛が出現していると言われている、それが気づきが始まった印だ
気づきには自我への愛が必要である、自分が自分自身という自我を限りなく、言葉を使わず無条件で愛しているときその自我を愛している愛の中で、愛している自我も愛されている自我も実は同じ一つの自我として、一つになった自我は気づきへと生まれ変わるのであると
気づきとは自我を観察している観察者とは、その観察されている自我であることを自我が観察することであるが、この観察とは受動的凝視であり、判断や評価や嫌悪や逃避があってはならない。その受動的凝視の中で思考・マインドがハートに変容することが徐々に起こるのだからだ
気づきとは練習で出来るものであり、決して自我にとって不可能なことではない、練習により徐々に自我が透明化されていくプロセスが進行していくのだと
純粋意識の表面に気づきが在りその気づきを覆っているのが思考やマインドである自我だからだ
だから気づきは決して自我(自己)にとって不可能ではないのだ、そして
その気づきが段々と自我を消去していくのだ