何故、進歩と安定を求めるのか?
安全でいたい、安定していたいと希求しているのは誰か?
少しでも先に進みたい、一歩でも進歩したいと願っているのは誰なのか?
安全でいたい、安定したいと願っているのは勿論「自分は肉体であり個人だと実感している私、即ち『私と言う観念』の私」であることだろう。その「私」というものが私は他人とは別々で「自分が行為している」と実感しているのだ。従ってその私が、「自分は安定していたい」「自分は進歩したい」と願うのである。その進歩、安全、安定を希求しているのは「私と言う観念」に他ならない。その「私という観念」とはハートの私ではなくマインドの私のことである。ハートの私は分離しているこのマインドの私に覆われているのだ。
この「私」が「私は他人とは別で、分離しており、必死に輪廻の中で生きて行かなくてはならない」、「努力して悟りを開き、万物と一体にならなければならない」・・・と思っているのだ。
その私が安全でいたい、安定していたい、悟りたいと願えば願うほど、努力すればするほど、それを目的に精進すればするほど、害毒をまき散らし続けている。
なぜなら、その努力している私という中心が、ハート・心である鏡を覆い尽くしている根本的無知・・即ち分離している「私と言う観念」に他ならないからだ。内部と外部において自他を分離知覚しているのは「私と言う観念」に他ならないのではないか。それはハートの私ではない。現在意識とは双方の混在状態なのだ。
そしてその「私と言う観念」は更に自分自身をカモフラージュするために、自分自身を否定・非難し、このわたし自身である「私と言う観念」を分析したり、思考し考察を重ねてそれを強化し、名前を付けてしまうことで理解したつもりなってしまう。
従ってその私は、自らであるその「私と言う観念」を命名化し、分析し、概念化し、非難することで、その「私と言う観念」自身から逃避してしまう事となる。決して自身である「私と言う観念」に直に向かい合わずに、目をそらしてしまうことで恐怖や不安を増大させてしまうのである。命名することによって理解したつもり、知ったつもりになってしまい、決して理解することがないのである。言葉や知識や概念を用いることはそれから逃避する為なのであり、直に見ないようにするためなのではないか。
その「私と言う観念」は自らを延命し、保身するために、自らを非難し、否定するのであるが、いくら自己否定してもそれは保身、延命のためであり、自己弁護の為でしかない。そのように自己を正当化し、保身のために自己から逃避しようとしているのである。
その狡猾な「私と言う観念」こそが動機を持ち、目的を持ち、至ろうとし、自己の拡大のために神と一体になろうとし、自分の為に真我を実現しようとしているのだ。そしてその為の方法を求め、努力し実践するのであるが、その目的を持ち、至ろうとすることこそが「行為しよう」とする事であり、「行為している実感」であり、その実感とは無明の証拠である。何故ならそれは目的と動機が利己であるからだ。「至ろう」「なろう」とするその「行為しようとすること」こそが全託していない証拠であるからだ。全託しているなら行為から離れ、神に全てを委ね起こっていることの全てを受容し、観照している筈であるからである。
だから「私と言う観念」は全託しているのだと自己を欺瞞することはあっても決して全託することはないし、行為しようとすることから離れることもない。根源が行為している事を(行為者とは根源であることを)頭で記憶して分かったつもりになっていても決して実感しないし、理解しないのである、故に「行為しよう」とし、方法を模索し、努力し、至ろうとし、成ろうとし、利己のために真我と繋がろうとするのである。神を求めたことがないのに、限りなく利己を拡張するために自分は神(真我)を求めていると自らを欺いている。
ゆえにあるがままからはなれようとして、常に目標と目的と理念を掲げて到達しようとする。あるがままを見ることもなく、あるがままであることを決して受け入れないのである。この自我を、この「私と言う観念」の私を決して受け入れないのだ。常に自分自身である自我を非難し、利己的に観念でもって上位の自己を設定してその「上位の自己」になろうと努力するのだ。観察者は観察されるものであることを理解もせず、このあるがままの自己を受け入れないのだ。
もしハートであるなら全てを受け入れ、進歩も願わず、安全安定を求めることもなく、あるがままであり、行為している実感もあるわけはなく、思考は静まっていることだろう従って理解があることだろう。分離した私と実感している私はいないことだろう。