心の可能性
私達・心に可能性というものがもしなかったのなら
ラマナ・マハリシもクリシュナムルティーも
語りかけられなかったことだろう
私達・こころ(ハート)には可能性があるのである
だから見なさい、「在りなさい」と云われているのだ。
心が純粋になり、溶け去り、心は変容する可能性があるのである。
だがここでいう心とは意識的自己の「知情意」のことではない。頭ではなくてハートのことだ。
この意識的自己も、その「知情意」も起こっている行為と同じく結果であるからだ。
私達は現在のところでは心と、行為の結果である「知情意」とを混同しているのだ。
ハート・心とは思考ではないのである。思考が起こる直前に見ているのがハートだ。
現在意識の中での意識的自己ではなくて、現在意識の中にあって意識的自己を見守っているのがハートなのだ。ゆえにこの現在意識が心の状態、鏡の状態のことでもあり、心が沈黙し透明になって純粋意識と繋がることによって熟睡をも観照することとなる可能性があると。
心とは結果である思考や自我やマインドではない。心は見る事が可能なのであり、
思考や自我や言葉を通さず直に葛藤や問題を見ることによって、心はそれらを超えることが可能になり、心が透明に純粋になることが起こるのだと。
だから心・ハートに対して「あるがままを直視しなさい」と語りかけられているのだ。
だが他人をイメージで見ているように、自分をも誤ったイメージで見ている。
記憶を通じて自他を見てしまい、イメージなく自他を見ていないのだ。
即ち心・ハートが正しく機能していないのである。心が正しく見ていないのだ。
純粋なハートには自他の分離はないというのにである。
私達は自分自身である心(ハート)を肉体や記憶や五感や知覚や感情や思考や
衝動や脳の状態や「私と言う観念」である自我と同一視してしまっているのだ。
即ち想念・知覚という鏡に映っているものと鏡が同一化してしまっているということか。
しかし、この鏡という自分には可塑性があり可能性があるからこそ
自我や思考を見る事が可能なのだ。純粋なる心(ハート)は思考なく見ることが出来るのだ。
通常の私達は、心を超えている自身の内奥の源ではなくて
心を覆っている私と言う観念や、脳の記憶や、脳と結合している記憶や脳の
働きと同一化しているので、自分の源とのつながりが希薄になっているのだ。
心があるがままを正しく見ることによって鏡が純粋に綺麗になり真我の太陽を映し出すことが可能となるといわれているのだ
この私達心とは、精神・ハートとも呼ばれる事もあり、悟性・理性とか云われ
ることもあり、個別的霊魂とか現在のパーソナリティーとも云われている。
言われ方は様々であり、名称は異なっていても中身は同じハート・心のことだ。
個別的霊魂・心とは肉体ではない。マインドや思考でもない、それら思考は根源か
ら映像として起きている行為の後に起こっている「自分が行為していると実感
している」意識的自己・自我の意志であり選択であり感情であり想念だからだ。
現在のパーソナリティー・個別的霊魂・心とは、肉体でもなく、脳でもなく、記憶でもなく想念形態でもなく、ワサナでもなく、個人や人格でもなく、それらの知識や、継続している記憶や、「意識的自己である私と言う観念の自我」でもないが、それらに浸透している、若しくは覆われているものであるといえる。浸透しているがゆえに心が純粋化し透明化するとき覆っている肉体も諸体も意識的自己等も透明化する。
そして浸透し覆われているがゆえに「行為している実感即ち根源が起こしている
聖なる錯覚」から目覚めることも根源が起こすことがらともいえる。